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イシカリの開発

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 北蝦夷地(カラフト)におけるロシア南進の急迫化にともなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的な対応策と共に、蝦夷地の体制にも重大な関心を払わざるを得なかった。箱館奉行も「蝦夷地ハ御国内之藩屛、殊ニ外国え接壤致し居候ニ付、万一之義有之候節、御国惣体之憂ニ相成候」との認識に立って、「上下一統ニテ其憂を荷ひ、全州之力を併せ、一時に御取開相成候より外有之間敷哉ニ付」(諸伺書類)として、蝦夷地を上知のうえ、その警衛と開発に対応していたのである。
 このような中にあって、西蝦夷地のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。それは「殊ニ同所之儀ハ東西通路も有之、蝦夷地第一之地勢ニテ、抑厚き見込も有之」(諸伺書類)と記されているように、イシカリは古くから西蝦夷地東蝦夷地とを結ぶ重要な交通の起点であり、また石狩川河口域は鮭漁の有数な漁場でもあり、その後背には石狩川流域の広大な原野がひかえていた。さらに石狩川をたどってさかのぼり天塩川やその他の河川に転ずれば、テシオ、ソウヤあるいはエサシ、アバシリに至る内陸交通路の起点ともなりうる地でもあって、北蝦夷地問題が緊迫化するにつれ、箱館から北蝦夷地へ向けての前進基地としての役割も考慮されるにいたった。
 このような重要な位置を占めるイシカリは、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人として差配していたが、その不都合な場所支配が明白になったことを契機に、安政五年(一八五八)箱館奉行所イシカリ場所の請負制を廃して直捌とし、いわゆるイシカリ改革を断行した(第四章参照)。
 かくて「同所之儀ハ、前文申上候通、兼々深見込も御座候場所ニ付、御直捌ニ仕、都テ私領中之悪弊一洗致し、漁業而已ニ無之、開拓筋厚世話仕、在住之者並農夫等引移、畑地取開、市店をも為取建、諸商売等為営候ニ付、永住人数も相増候儀ニ有之」と、文久二年(一八六二)の段階でのイシカリの状況が、箱館奉行から老中への上申書の中にも記されている(諸伺書類)。