大友は各地検分の結果、自分が取り扱うべきイシカリ御手作場の地を、石狩川左岸のサッポロプトからフシコサッポロ川をさかのぼった上流地域の「サツホロ」と決し、そして直ちに御手作場の造成に着手した。この間の経緯を彼は次のように記している。
石狩国原野ヲ実検スルニ、最良ノ原野ハ札幌ナリ、故ニ此地ニ着手シ、其要ハ用水路及ヒ道路等ノ弁利ヲ量リ、測量シテ之ヲ定メ、且此地ノ成跡ヲ視ルニ、南北蝦夷地へ只一小線ノ通路アルノミ、其他開闢以来未タ人足ノ通セサル処ニシテ草木繁茂シ、故ニ木ヲ伐リ草ヲ苅、道ヲ開鑿シ始テ人馬ヲ通ツル迠、星ヲ視月ヲ眺テ山野ニ泊スルコト幾数夜、漸ク同年九月九日ニ至リ、用水路並道路橋梁ノ効ヲ奏シ
(大友亀太郎履歴書綴 大友文書)
とあり、なおこの用水に初めて水を引き、その水が川尾に達するのに三日を要したという。他方、このような御手作場の造成と相まって、その間農民を招募し、最初の移住農民四戸が同二年七月イシカリ御手作場に入植するのであるが、これらのことは後述する。