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中田儀右衛門・福玉仙吉ほか

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 一般に上手稲村の祖とされている中田儀右衛門は、岩手郡薮川村の出身で、万延元年に道南の大野村に移住、慶応三年にハッサム村に入植、翌明治元年にのちの上手稲村となる地に移住し、開墾・農業に従事したといわれている(札幌県報 四三号)。大筋は、おそらくこのとおりと思われる。しかし、『地価創定請書』(明治十一年)によれば、中田への現住土地の割渡しは宅地・耕地とも慶応三年となっている。すなわち中田は慶応三年以降移動していないことになる。これについては、明治十六年(一八八三)一月付で札幌県に提出された履歴書によれば、大野村から「慶応二年五月末上手稲村即今在住地へ移転、爾後農業一途従事」(札幌県治類典 庶務課 明治十七年三月)となって、年は一年異なるものの、当地方最初の入植地から動いていない。これはたとえば明治五年二月に手稲村設置に関連する文書で、のちの上手稲村辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家中)繰入之場所」(地理諸留)と記しているように、当時ハッサム村と呼称された地域は、周囲に集落がないことから、きわめて広く、もちろん境界等も明確であるはずはない。したがって中田の場合も、入植地がその時点でハッサム村であり、その地が後年手稲村になり、さらに上手稲村となったにすぎないという可能性も充分に考えられる。
 このほか、『地価創定請書上手稲村の項では、明治二年二月の土地割渡しとして佐々木せつ(『検地野帳』では佐々木佐平)の名がある。さらに江戸深川の出で、島義勇の従者となって島と共に札幌入りしたと記されていることの多い福玉仙吉は、明治元年三月に、のちの上手稲村に宅地の割渡しをうけている(耕地については割渡年の記載なし)。これによれば、島の従者云々も否定されることになる。福玉に関し昭和二十六年刊行の『手稲町誌』は、「箱館奉行山田某の僕として来れる江戸の人」と注記している。山田という箱館奉行はいないが、織田信発の可能性があり、慶応二年に目付けとして箱館に在地した(慶応三年九月勘定奉行兼箱館奉行)ことも含めれば、あり得ることである。
 前記のほか『手稲村史原稿』(明治四十四年三月起)には、「旧記」からの転載として、明治三年以前の居住者八人の名を挙げている。そのうち明治二年までの移住者は、加藤留吉(文久三年)、山村長吉(元治元年)、三浦兼五郎(慶応三年)、瓜田熊五郎(明治元年)、藤崎吉太郎・斎藤平吉・鹿内兼松(同二年)の七人で、出身地はいずれも越後国蒲原郡となっている。また『札幌郡調』には、イシカリ役所の足軽亀谷丑太郎が、ハッサム番所詰となり、「今ノ手稲村の橋上」に農地を開いたとある。
 以上のように、ハッサム村などには多くの開拓民が出入りした。その多くは『札幌区史』の記すように、「無頼浮浪の徒にして、徒に給与米に頼り、賭博に耽りて其業に専らなら」ざるものであったようだが、一方、定着して開拓に従事した若干が残り、これが軸となって形成された村が開拓使に引継がれたといえよう。