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開墾取扱所ほか建造物

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 御手作場は、前項の札幌村図(図4)でみるように、西から堀割が入り込み、それに道路がほぼ平行して走り、堀割御手作場地所の中央でフシコサッポロ川に落ち込む。道路はさらにゆるく左に曲がりながら北上して丘珠に向かう。この堀割と道路に沿って左右に農地が区画され、その各々に農家が点在していた。そしてこの堀割の落口付近に開墾取扱所、すなわち大友亀太郎の役宅が建てられていた。
 大友の役宅は本来在住身分としての居宅が給付されることになっていた。しかし大友はイシカリ赴任に際し、単なる在住居宅では御手作場経営に当たって多くの農民を取扱うことなどのため狭隘であるとして、より広い家作の給付を要求していた。これに対し奉行所は、絵図を添えて改めて伺をたてるように指示している。慶応二年に桁間一〇間・梁間四間と推定される開墾取扱所が建築(諸経費三五両余)されているが、これは仮の役宅で、本役宅建築後は黒鍬たちの小屋となるものであった。翌慶応三年に本開墾取扱所が建てられた。これは新規の建造物ではなく、「明宅(あきたく)」を移築したものであった。明宅と記されているのを見ると、近在のすでに退去した在住家作とも考えられる。慶応二年の『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によると、「在住中川秋山明宅二軒願受代」としてイシカリ役所へ金四三両を納めており、また別に「開墾取扱所に相用ひ候明宅ほごし之事」として明宅解体の人足賃料銭六四貫六〇〇文が計上されているのを見ると、あるいはこの在住家作二軒分が利用されたものであろうか(明治二年札幌本府建設のため乗り込んできた開拓判官島義勇は、この大友役宅をさらに移築して官宅としたとあるところを見ると、単なる規格的な単一の在住家作ではなかったと考えられる)。ただこの明宅は相当に老朽化しており、多くの足し木が必要であったとしている(慶応三年 石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳 大友文書)。
 おそらくこの開墾取扱所の近辺に建築されたと思われる建物が三軒ある。それは慶応三年に建築された板倉、穀物入蔵および鍛冶小屋であるが、それらに収納あるいは使用する物資は、イシカリより石狩川・フシコサッポロ川を経て船で運漕されてきたはずであるから、堀割の落口の開墾取扱所近辺が、その管理とともに最も妥当な建築場所であろう。ところで板倉は桁間四間・梁間三間で建坪一二坪に過ぎない。しかし土台、柱、梁、根引、小根太などのいわゆる構造材に伐木七七石六斗余を、また外壁の落とし板に一寸五分板(三四坪)を使用するなどして、その建材や大工、木挽、人足の手間賃を合わせて総経費金一四三両余を要しており、本格的な板倉といえよう(ちなみに開墾取扱所の移築・補修の総経費は金一三九両余であった)。穀物入蔵は、塩噌、縄、莚、板類そのほか穀物を収納する蔵で、桁間四間・梁間三間の一二坪であり(経費金二三両余)、また鍛冶小屋(規模不明、経費は人足費のみの金四両弱)も並んでいたと考えられる。
 なおまた、大友は慶応三年十二月に、開墾取扱所に隣接して御手作場の鎮守としての妙見社の造営に着手、翌四年四月に完成した。ここに妙見菩薩を安置し、イシカリの石狩山金龍庵住職日現により勧請された。この社は大友個人によって建立されたものであった(履歴書 大友亀太郎文書補遺)。
 以上の開墾取扱所、板倉、穀物入蔵、鍛冶小屋、それに妙見社などの建物が、場所的にも機能的にも、御手作場の中心部を構成していたものと考えられる。