御手作場の入植者たちは大層手厚い保護を受けていたことは前章でも述べた。例えば給付物品をみると、四年間の予定の扶持米をはじめとして味噌・塩、家財道具として鍋(四升焚・二升焚)、湯釜、薄刃、膳、椀、摺鉢、笊、柄杓、布団(掛・敷)、明樽、莚を、農具として窓切鍬、平鍬、山刀、斧、鎌、大鋤、臼杵、荒砥、中砥が、また各種種子も、戸により品目・数量に多少の差があるとはいえ、これだけの物が現物支給された。さらに入植にいたる支度・引越料、それに開発田畑に応じ開墾手当も支給されているのである。加えて生活困窮に陥れば拝借金も貸付けてくれ、また勧農・勧業の指導もなされるという、まことに手厚い保護のもとに御手作場農民は置かれていたのであった。
しかしながら、このような扶助・保護を受けながらも、御手作場農民は決して安定した生活を享受していたわけではない。ただでさえ僻地ゆえに諸式は高く、さらに維新の変動にもまきこまれて、物価の高騰は激しかった。例えばイシカリにおいて官が購入する物品の価格でみても、慶応二年二月箱館において作成したイシカリ御手作場の経営計画書では、米一俵の単価銭一三貫六〇〇文と見積っていたのに対し、同年のイシカリでの購入額は一七貫四〇〇文、慶応三年は二七貫文、四年は二三貫八七五文となっており、また塩は計画では一俵一貫文としたのに、二年の購入は二貫七五〇文、三年に二貫八八〇文、四年には三貫一〇八文となっている。このような物価の騰貴は、現実の生活が自給に向けられている以上、現金収入に乏しい入植者たちにとっては大きな打撃であったことは疑いをいれない。
このために生ずる窮乏を切り抜けるのには借金より打つ手はない。ここにさきにもふれたように開墾取扱所より拝借するにいたるのである。入植初年の慶応二年にこそ認められないが、三年より農民たちへの貸付金は激増し、ほとんどの農民に対し、「洗濯もの其外之為メニ木綿類其外無余儀品々当座凌之為メ」とか、「昨卯年已来衣類買入、又ハ洗濯或ハ火災病難ん之ものエ当座凌之為貸渡置候」ところの貸付金は、慶応四年六月の時点で総額金一一〇両三分二朱と記帳されている。そしてその内訳は次の通りであった。長蔵(金四両三朱)、万次郎(九両二分一朱)、宅四郎(一四両三分二朱)、弥平次(一七両三朱)、松太郎(一九両三分二朱)、勘右衛門(二両三分二朱)、吉之助(三両二分三朱)、寅吉(一分二朱)、寅助(一両二分)、久八(一両一朱)、徳三郎(四両二分三朱)、磯吉(四両一分)、長八(九両一分一朱)、佐次右衛門(二両一分二朱)、三太郎(四両三分一朱)、卯之助(二両三分一朱)、嘉蔵(四両二分)、幸吉(二両三分三朱)と記帳されている(慶応四年六月 石狩御手作場開墾御用金請払書上下書 大友文書)。
これらの貸付金の利息は不明であるが、ただ大友がイシカリ御手作場経営に当たり、慶応二年六月に提出した将来計画ともいうべき『蝦夷地石狩領荒地開発田畑御収納方三十ケ年組立書上帳』(大友文書)において、入植一〇年後より徴収する収納金(年貢)は、全額を農民貸付金とすべきことを主張しているが、その利息は年一割としていた。また慶応三年に一部貸付金を返済しているのを見ると、蕎麦・大豆・稗の現物をもってなしており、開墾取扱所はその現物を一俵あておおよそ蕎麦は一両二分、大豆は二両、稗は一両と換算して処置しているのである。上記正金のほかに「御扶持米追々喰込貸渡分」とした米一石九斗二升一合四勺を、長蔵、弥平次、勘右衛門、寅吉、荷三郎の五人に貸付けてもいる。
ところで、以上のような莫大な貸付金・米は、慶応四年九月から十一月にかけて「一統エ貸附金ニ相成居候処、当九月中救助金として被下切ニ相成候」として、一切棄損されて貸借関係は帳消しという処置がとられるに至っているのであった(慶応四年十二月 石狩御手作場開墾御入用請払書上帳 大友文書)。