松浦武四郎の蝦夷地調査についてはすでに述べられているが(第二章第三節)、それは、彼が調査行のたびに書き残した日誌の表題をも略称して合わせ記すと、弘化二年(一八四五)「初航」、弘化三年(一八四六)「再航」、嘉永二年(一八四九)「三航」、安政三年(一八五六)「廻浦」、安政四年(一八五七)「丁巳」、安政五年(一八五八)「戊午」の六回におよんでいる。このうちサッポロ近傍に足を踏み入れたのは、弘化三年と安政三・四・五年の四回であった。
最初のサッポロ行は弘化三年(再航)で、この時は松前より西蝦夷地の沿岸を船で北上して北蝦夷地に入り、帰途八月にイシカリに立寄ってからさらに石狩川をさかのぼり、千歳川に転じてチトセを経由、ユウフツに出て江差にもどっている。この石狩川遡上の折サッポロ近傍の調査を成している。
二回目は安政三年(廻浦)であるが、この時は前年の暮に箱館奉行所雇に任用されており、蝦夷地の幕府直轄に基づき西蝦夷地と北蝦夷地の請取を命じられた箱館奉行所支配組頭向山源大夫の手付として参加した。箱館出立後五月にイシカリに立寄り、ここから石狩川をさかのぼり、途中雨竜川に移ってルルモッペへ出る内陸コースをたどって北蝦夷地へ向かっているが、この途次イシカリを発してから石狩川流域よりサッポロ近傍を再び検分している。
三回目は安政四年(丁巳)で、この踏査は西蝦夷地の内陸部を主体としたものであったが、石狩川上流の諸河川調査の折、五月に石狩川に沿いサッポロを検分、さらに上川よりイシカリへ一旦帰着後、閏五月堀箱館奉行と共にゼニバコよりハッサムに入ってサッポロ近傍を視察し、イシカリにもどっている。
四回目は安政五年(戊午)の東西蝦夷地を縦横に巡った大踏査行で、今回は厳冬の中をウスより中山峠付近を越え、豊平川を下降しマコマナイを経て二月にサッポロの地に入り、トイヒラ、コトニ、ハッサム、フシコを通過してゼニバコに抜け、さらに東西蝦夷地巡回後、六月に再びゼニバコよりホシオキ、ハッサム、コトニ、トイヒラ、チキシャブと、サッポロ越新道を経由してユウフツへ向かっている。
以上のように、武四郎は四回の踏査行のうち、さらに細かく見れば六度にわたりサッポロの地を検分しているのである。しかもそれらは、石狩川沿いのコース、ゼニバコよりテイネ山麓側より入るコース、豊平川を下ってきてのサッポロ入りコース、それにサッポロ越新道をたどるコースと、回数のみならずサッポロの地をめぐってそれぞれ異なった視角から実検していることが特徴的であるといえよう。