かつて幕府が文化四年(一八〇七)に西蝦夷地をも上地して、全蝦夷島を直領とした直接の契機は、千島ならびにカラフトをめぐってのロシアとの接触にあったのであるが、この状況は安政二年の再度の蝦夷地直領化においてもより緊迫した形で継承されていた。ところで東蝦夷地は、その海岸線に沿ってネモロに至る陸路はそれほど困難はなかったが、西蝦夷地の箱館よりソウヤに至る海岸線は、マシケ・ソウヤ間を除いては、多くの箇所で断崖が海に迫り、陸路をたどることは不可能であった。加えてこの日本海沿岸は、秋より春にかけて海上航路はほとんど途絶のやむなきにいたる気象条件でもあった。そのため幕府にとって、北蝦夷地でのロシアとの直接対応、ひいては蝦夷地の防備をふまえて、口蝦夷地より奥蝦夷地に通じる陸路の設定は、緊急不可欠の重要課題であったのである。文化期に近藤重蔵らが西蝦夷地の内陸踏査をなしたのも、まさにこの課題に対する最初の試行であった。そしてこの度の松浦の蝦夷地調査に対して、箱館奉行が特に指示した新開道路の見立てなるものも、これら一連の懸案の解決を図るものである。
この特命に応じた武四郎は、その調査の結果、以下のような策を上申しているのである(札幌越大新道申上書)。彼はまず第一に、蝦夷地を南北に縦断する基幹道路として、「サッポロ越大新道」なるものの開削を提唱している。これは箱館からは内浦湾を巡る既設の海岸道路をもって山越内オシャマンベに来り、そこから隣接するアブタ領シツカリを経て内陸路を新開することになっている。シツカリからコンブ川をたどってマッカリを通り、羊蹄山と尻別岳の間を抜け、キモベツ川をさかのぼって現在の中山峠付近を越え、豊平川を下ってトイヒラを通過してツイシカリに達する。ツイシカリよりは石狩川を川なりに遡上して、カムイコタン、チュウベツブトを経てアイベツ川に転じ、峠を越してテシオ川を下り、さらにナヨロ川からサンル川をたどってホロナイ川上流に出て、そして北海岸(オホーツク沿岸)のモンベツ領ホロナイ(現在雄武町の字)に達するものである。オシャマンベを発してからホロナイまで、一六日間の道程と見積っている。
さらに武四郎はこの大新道を幹線として、これからトカチ、クスリ、シャリ、ネモロ、ルルモッペ、マシケ、サル、ユウフツへ通ずる諸道を切り開くべきことを添えており、これらをもって蝦夷地の道路網を構想していたのである。