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イシカリの機能

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 武四郎はしばしばイシカリをもって、枢要の地と称している。上記の大新道上申書の中では、「当地第一枢要の石狩場所」とも記している。これをみると枢要の地イシカリとは、石狩川河口の運上所や勤番所を中心としたイシカリの集落地域のみを指すのではなく、広義にイシカリ十三場所を含む石狩川下流地域を指していると推察される。この地勢の概略を、別に彼は次のように記述している。
此地形酉向にして北ヲフイ、南は高しま崎との間一大湾をなし、其第一奥の処なり。前に川有、巾凡弐百余間、深さ五尋より六尋、七尋に及ぶ也。其川の左右能開け、奥は五十里の間少しも山なし。東は三日より四日位山なし。西南十里外ならで山岳なし。頗る広膜(漠)の地にて、本邦版図中無双の大川となすなり。其山に入ては、百余里にして奥を極めし者当時なし。
(竹四郎廻浦日記)

さらにこの石狩場所は蝦夷地において有数の鮭漁の地であったが、その運上金は金二二五〇両、夏場秋味金一〇〇〇両におよぶと記している(再航蝦夷日誌)。
 イシカリは西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって東・西蝦夷地を結ぶ重要な陸路の起点でもあった。さらに安政四年にはゼニバコ、トイヒラ、チトセを経てユウフツに達する、いわゆるサッポロ越新道も完成し、加えていま一つとして構想されているサッポロ越大新道においても、その全道程のほぼ中間に位置し、かつこの大新道の途次において唯一の海上航路との結節点でもあった。それに後背には広大な原野を擁している。北蝦夷地における日露の関係が緊迫化するにつれ、箱館奉行所イシカリ役所は北蝦夷地をも管掌するところとなり、イシカリの重要性はますます増大されていくのである。