三年二月十三日に樺太開拓使が設置されたことは先にふれた。しかしこれによって混乱する北地問題が、解決の方向へ歩みを進めたというわけではなかった。樺太開拓使の機構も人事も未確定のままである。政府は三月四日それらの方向性をさぐることを含めて、丸山外務大丞と谷元外務権大丞に至急帰京を命じた。両人は四月十二日に着京している。そしてすでに帰京していた堀開拓権判官らと共に、切実な樺太状況について政府ならびに要人に訴えていた。特に丸山・谷元は政府の方針に反して対露強硬過激な論であった(そのため七月三日両名とも樺太駐在を罷免される)。
この過程で堀は四月二十四日大久保参議に対して、樺太開拓使の人事を早急に決定すべきことを懇望し、かつ「就ては黒田え開拓次官ニて箱館詰、長谷部卓爾え樺太出張被仰付候様仕度奉存候、左候ハヽ両人の見込も相立可申」との案も提示している(大久保関係文書 五)。その矢先に黒田兵部大丞は前原兵部大輔と海軍整備の件で大争論を起こし、同じ旧薩摩藩の先輩である大久保は、「全体事ニ臨テ不能制黒田之気質」とか、また「小臣ヲ始メ薩人之頑陋ハ実ニ御困りのもの」などと大いに恐縮しつつ、急遽堀の意見を採用して、「兼て唐太之事件昼夜至憂」していた黒田の次官就任へと運ぶのである(大久保文書 三)。三年五月九日黒田は開拓次官に任命され、かつ樺太専務と指令された。
しかしこの黒田の次官就任によっても、樺太開拓使が明確になったわけでもなかった。黒田は六月十六日大久保に対し以下のように要望している。それは「小子官名まだらゆへ、昨日樺太印紙ヲ府藩県等へ廻シ度ニ付弁官え伺出候処、矢張開拓使出張之処ナリ、なんそト余程議論相立チ、判然樺太開拓次官ト名目御替被下候様御尽力願上候、以来又々不都合可有之、長官関係ナキのニ只開拓使印紙デ済ムハ不条理ト考へ条公えも篤ト申上置候間、早速至当之御沙汰奉仰候」という書簡である(大久保関係文書 三)。要するに黒田は、樺太専務といっても、あくまで従来の開拓使の次官であって、新設した樺太開拓使という機関の総括者として位置づけられているわけではなかったのである。まさに彼のいう「まだら」な(入りまじった)存在であった。そしてこのようなありかたは、樺太開拓使が再び開拓使に合併されるまで解消されることはなかった(ただ樺太開拓使の設置により、従来の開拓使を北海道開拓使と、その呼称は区別されていた)。以上のように、樺太開拓使の設置といっても、その機構も人事も未確定の面があり、従来の開拓使内部はかえって混沌とするのである。さらに島判官離任後の石狩の総括者は、函館担当判官の岩村が代行することとなり、混沌は倍加したといえる。
他方、開拓使設置以来混乱の元であった開拓経費は、当初より樺太詰の強い不満もあって、三年五月三十日政府は定額を北海道開拓分として金一三万両・米九〇〇〇石、樺太開拓分として金一二万両・米五〇〇〇石と明確化した。これにより経費に限り北海道と樺太との間の混乱は避けられた。しかし定額一三万両での北海道開拓はますます困難な状況に追いやられる。
上述のような開拓使の機構上の混乱や財政の窮乏にとりかこまれて、当然札幌本府建設も大きな影響を被ることとなった。三年二月に西地を巡回して札幌にも足を入れた岩村は、すでに工事にかかっているものを除き、新規の営繕は見合わせさせ、「九月中は当地に相詰、何角尽力仕り、是非共聊たり共、開拓之目的相立可申心得に御座候」と三月に在京の東久世に報じている(北海道史料 道図)。また七月には「札幌建府ノ得失衆議紛々」とあり(開拓使布令録)、さらに十月三日の開拓使伺にも「札幌建府ノ儀何分速急ノ目途難相立」(市史 第七巻)と、その苦渋を陳述している状況であった。