二代目の開拓長官になった東久世通禧の『日録』に、四年六月十七日に「東本願寺寺用移民四拾人新潟より到着」と記されている。また『本府管刹役席日誌』(東本願寺北海道開教史)には、同じく六月十七日に「一昨十五日別紙之通附属農夫引連、輪番唯乗坊当着仕候」と、開拓使庶務掛への届が記されている。さらに『人別改ニ付左之通差上候控』(同前)には、新潟県古志郡出身の大工職高橋九右衛門ほか二四人の名前が連記されている。いわゆる本願寺移民に関する史料は上記の二点につきるが、これらの移民は不明な点が多い。
本願寺移民について『東本願寺北海道開教史』は、これは東本願寺が募集した農民で当初は管刹所周辺に入植したが、市街地へ編入となり四年暮に琴似村二十四軒へ転住したとする。同書には移民の地所につき、「当地所之義ハ明治三庚午年八月、当御詰合十文字殿エ伺之上弐百間四方荒棘之地開発仕候処、追々御開拓盛大ニ付右地所御引上ニ相成」と、十年三月十日の「境内地払下願」を引載している。これによると三年八月に、大主典十文字龍助から四万坪(二百間四方)の地所の割渡しをうけたことになっている。四年四月に開拓使と函館出張東本願寺との間にかわされた往復では、札幌管刹所の地所を測量したところ七万坪あり、東本願寺へ割渡し許可の書面があるのか問い質している(札幌往復 道文三三四)。以上の経緯をみると、三年八月に札幌管刹所へ数万坪の地所が割渡しとなり、ここの開墾のために東本願寺では農民を招致したらしい。そして実際に四年六月に農民も到着する。ところが四年四月の往復にあるように、許可書のない割渡しであったために地所は取上げとなったようだ。これが四年暮とみられる。
ただ先書では移民の入植地を辛未一ノ村とし、のちに琴似村二十四軒に転住したとするのは誤りである。辛未一ノ村の形成、及び琴似村への転住(四年二月頃)は、本願寺移民の到着以前にすでに終了している。また『琴似町史』所収の戸籍簿には、本願寺の差出した名簿との合致者はみられない。
それでは本願寺移民は、その後どこへ行ったのだろうか。移民の人名が知られているうち、高橋九右衛門は胆振通二五番地に家屋を所有している(地価創定請書)、大工職小林栄吉は浦川通九四番地・津軽通九四番地の二カ所に地所を所有している(大村耕太郎資料 札幌市文化課蔵)ことがこれまで判明している。移民の職業のほとんどが大工職、土方職とされている。そのため多くは市中の建設業に従事して漸次離散し、九右衛門や栄吉のように一部が市中に残ったものとみられる。