明治五年の『A MAP OF SAPPORO, Island of Hokkaido』(新撰北海道史第三巻)の胆振通西創成町(西一丁目)をみると、『札幌区劃図』に比べ、現在の区画に近く変更されている。しかし胆振川は、後のように西二丁目通を直線的に北流しているのとは違い、西一丁目の区画の中を蛇行している。これは、四年に一応設定した区画を変更したことを示唆している。
五年五月後に胆振通(南二西一)に居住していることが確認できる佐野平三郎(後の平十郎か)は、「川続御地所御模様替」のために、進めていた家作工事を中止するように開拓使から指令された(市中諸願綴込 北大図)。また『札幌区劃図』では、東創成町(南一東一)にいる北島粂次郎は、『戸籍番号帳 全』(大村耕太郎史料 札幌市文化課)や十二年頃の『地価創定請書』(市史 第七巻)では、胆振通(南一西一)にいることになっている。北島は四月、「御拝借御地所御模様替」のため建築中の工事を見合わすように指令された。どちらも開拓使側の指示する場所への移築の願いを出し許可された(同前)。これらから市中を流れる胆振川や後の創成川にあたる川近辺の地所について、なんらかの変更がなされていることが確認できる。当時の地図と合わせて判断して、後の胆振通西創成町(西一)にかかわる区画変更と推察できる。御用火事の直後でもあるから、御用火事の政策意図とのかかわりも否定できないのではないだろうか。