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町名の設定と町区画の拡大

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 明治四年に札幌本府の建設が本格的に始まって以降、札幌市街にも町名が付されていった。四年半ばには「本町〇丁目」という呼び方があった。これ以降の市街への町名付与は、『市史』第七巻二一二頁以降に詳しいので詳述しない。大きな変化は、五年九月町名として「北海道国郡名」を付した時、十四年六月条丁目へ町名変更した時である。その間六年五月、それまでの区画の増加にあわせて一一町名を付した。しかしこの町名は、二、三の町名を除いてどこを指すのか不明である。この時に渡島通(南一条)が現西一〇丁目まで区画され、現西一一丁目通(国道二三〇号)を岩内通と名付けた。九年十一月に本庁敷地前の通りを小樽通と町名を付した。さらに十四年の町名変更以降も、市街の拡大にあわせて順次町名を付与していった。
 一方市街の区画は、開拓使事業の進展とともに周辺へ拡大していった。そのなかで大きな変化は、十二年に新たに市街地を区画しようとしたことである。この区画工事は十三年四月から十四年九月に行われた。これは、市民へ払下げるために図2(取裁録 道文三一一二)のように、南六条西一~七丁目と南二~五条西六~八丁目などを区画した。この区画の払下げは、すでに十一年五月以降に行われていた。そしてほとんどが、間口一〇間、奥行二七間であった。また払下げを受けたものの多くが市中の他の場所に本籍地を持っているものである(市史 第七巻四四〇頁以降)。この市街区画の設定で、札幌の市街区画は、豊平川の流れの変更にともなって市街地に編入される地域と北方域などを除いてほぼ終了した。

図-2 明治11年の区画予定線 点線は区画予定線『取裁録』(道文3112)より作成


図-3 開拓使時代の札幌市街の形成

地価創定請書』(市史 第7巻、道文3148)の家屋営構年を地図とした。しかし南2、3条西5丁目のもと仮官邸地の三軒及び四軒長屋などは本来明治5年に建設しているが、同史料では官宅の払下げのあった9年を家屋営構年としている。同史料作成の際、払下げ年月(第5編2章4節参照)や家屋営構年についてなんらかの事情があったことをうかがわせる。町割・地割については、『北海道札幌之図』(明治11年7月、北大図)、『戸籍番号帳 全』(大村耕太郎資料 札幌市文化課)を参考にした。