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山林の取締りと利用

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 明治十年四月、札幌本庁は山林監護条例二〇条を発布した。第一条で山林を官林(官有の永久保存林ないし社地林)、公林(官民平常の用材林)、邑林(邑村の用材林)、私林(私有林)の四種に区分し、以下、伐木・管理・山火・監守・測量など山林の管理、保護の諸事項について詳しく規定している(市史 第七巻)。翌十一年十月、開拓使はこの条例を原型にして森林監護仮条例・山林原野調査仮条例・山林監守人規則等を定めて全道に施行した。これらによって全道的にも山林の管理、取締りの体制が整備へ向かったのである。
 一方、このころすでに大量の苗木が官園ほかの敷地へ移植されていた。九年五月、七重官園から檜苗一万、杉苗五〇〇〇、松苗一〇〇〇を札幌官園に移植し、さらにこの年秋田杉の種子若干を播種した。翌十年成長した檜・杉苗三万余を札幌神社境内に植えた。また月寒山より自生の椴松苗六〇〇〇余を旧本庁土塁の内外に移植した。十一年二月、上下手稲・月寒・平岸の四村人民に杉の種を下付して播種させ、同月中官園内に二万余坪を開いて東京・青森・七重から移入した松・檜・椴松・栗・槲(かしわ)等の種子二石余を下種している。この後も諸樹の種子を播種したが、その中には榧(かや)(宮城県産)、欅(けやき)(東京府産)、桐(札幌産)、檜(米国産)、松(西洋産)などがみられた。また九年に山形県庄内より約四〇〇〇株の楮苗(こうぞなえ)を購入して官園場内に試植し、和紙原料たる樹皮の採収試験を行い、以後も七重から漸次一万五〇〇〇株を移植し、民間に大半を払い下げている。
 十三年五月、札幌神社の外苑に六万一〇〇〇坪余の育種園が設けられ、以後内外の非常に多種類の苗木が栽培され、各種の試験がなされた。二十三年、御料林の設定にともない御料養樹園となったが、北海道庁によって新たに設置されていく札幌苗圃(二十五年)、小樽苗圃(二十六年)などと共に、道内苗圃の中核として維持経営された。 以上のような山林取締りと育苗・育林の基礎事業の進捗の傍らで、伐木・利用の制度作りとその実施が本格化してきた。
 札幌本庁は十年四月林木払下規則全一七条を設け、林木払下げについての細かな条件を定めた。第二条で公林を三等に分け、一等公林は官用とし、二等公林については「官庁並市街ノ近傍、道路ノ左右、大小河流ノ源及河畔ノ林木ハ、家作営構或ハ開墾地ノ外凡一町ヨリ三十六町マテ、土地ノ便否ニ寄リ伐木ヲ免サス、其他往々人民ノ遊観トナルヘキ地ノ雑林」と、都市、道路及び水利の環境保全についての配慮を示し、三等公林を「一、二等ノ公林外ニシテ人民伐木ヲ免ス雑林」として人民ノ自用或いは商法のための払下げを定めた。
 林木払下げ出願者に対しては定価をもって伐木を許可したが、その価格は、営家・造船等の用材は一〇〇石(当時一尺角、長一丈を一石とする)金五円より一〇円、薪は長二尺五寸、高五尺、横六尺の一敷を金五銭より八銭、炭焼用材は同様一敷金三銭より五銭となっている。入林は季節を定め、夏山(四月~九月)、冬山(十月~翌年三月)に分けて許可した。この外、杣夫一人当たり一期伐木量を一〇〇〇石以内とし、また稚樹や山の背の伐木は禁止している(市史 第七巻)。
 十一年六月、札幌本庁は炭焼営業規則全七条を定め、その第一条には、「本庁管下ニ於テ炭焼営業ヲ為ント欲ル者ハ、先其月数・地名ト使用スヘキ地所坪数ヲ詳記シ、地図ヲ副、第一号式ノ願書二通ヲ作リ、本庁直轄地方ハ民事局地理課、其他ハ分署へ差出ヘシ」とあり、これにのっとった絵図付きの願書が多く残っており、札幌近辺山野に広く展開した炭焼とその周辺原初の状況をわずかながら想像することができる(明治十三年山林願取裁録 道文三八六三、市史 第七巻)。
 このような制度の整備につれて林木伐採量の把握も正確になり、統計上は十年以降に急増している。その中で最大量を示す十三年の札幌本庁管内の営工材(家屋材の売下量)の概数は二六万石(函館支庁四万八〇〇〇石、根室支庁三万四〇〇〇石)、薪炭材二一万敷(同七万四〇〇〇敷、二万敷)、その他を合計した代価二万二七〇〇円(同一万二二〇〇円、二六〇〇円)という数字がある。そしてその中では石狩国管内の林木売下量が突出しており、十三年中の家屋材一一万五七二四石、六一〇四円とあり、それに対して薪炭材は五万七九五九敷、二二六八円であった。この様な数字は、札幌及び周辺諸村落の建築ラッシュなどを背景にしていると思われる(開拓使事業報告 第一編)。