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上白石村の成立

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 四年十二月に白石村に入植した元仙台藩片倉邦憲(小十郎)の家臣で、開拓使貫属となった一〇四戸は、現在の国道一二号にそい白石区中央から本通一三丁目に居住した。しかし、中央付近は望月寒川(もつきさむかわ)が湾流しており、低湿地であったために居住、農耕に不適当であった。事実、早くも翌五年二月に「盧を移す者数名、居を転するもの十八戸、今の横丁即ち是なり」(町村誌資料 白石村)と、横丁通(現米里行啓通)へ一八戸が転居したことも伝えられている。このことにより六年八月に、今村勝質ほか一六人から地所替の願書が出された。願書では彼らの地所が、「谷地湿地而已多ク、御扶助中永続ノ基礎可相立目途更ニ無之」(市史 第七巻二一八頁)といわれており、地形的条件が原因であった。地所替の地は豊平川右岸の現在の白石区菊水及び菊水上町である。先の一七戸に加えさらに九戸が移転したようで、七年三月十七日に「白石村ヨリ豊平川端へ移住ノ者二十六戸」の居住地を新白石村と命名し、分村設置のことが豊平村設置とともに市在に布達された。
 しかし村設置のことは黒田清隆次官へ伺を出すこと、新白石村の名称は白石村と「同名ニ新古ノ別有之ノミニテ往々紛敷不少候」との二点の指示を東京出張所からうけ、松本十郎大判官は五月十日に改めて伺書を東京へ送った。その時に村名について、「新白石村之義別ニ名称相立可然共存候得共、村民一同白石より移住之モノにて白石之二字存シ置度情願ニ付、上白石と名付ケ申度」との「情願」により、上白石と改称されることになった(市史 第七巻二二二頁)。また豊平村のほかに山鼻村の設置もあわせて伺に記された。上白石豊平村は六月に許可となり、九月二十三日には三村の設置が全国の府県へ布達された。以上の経過は複雑であるが、『開拓使事業報告』には六月に三村の設置が記されているので、これが正式な設置月とみてよい。
 上白石村の移転につき、二十五年一月に杉山順の著(あらわ)した「白石村移住顚末」(町村誌資料)によると、「本村瘠土にして後来の目途なきを主張」する転居派と非転居派に村内が二分され、「村学舎に会し討議」をおこなったという。ただし背景には、政争も存在したようである。