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山鼻村の成立と伏見の開拓

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 山鼻村豊平村と並び、七年五月十日に村設置の伺が松本十郎大判官から黒田清隆次官に出されている。山鼻村の範囲は、「南方ハツタリヘツ迄石切山道筋左右」とされている(市史 第七巻二二三頁)。石切山道はいまの国道二三〇号(通称石山通)で八垂別の硬石、石山の軟石を運搬するために開削された道路で、馬車道として整備されたのは九年七月十一日である(開拓使日誌)。石の採掘は四年から行われており、この頃簡易な道路も敷設されていて、石切山道と呼ばれていたらしい。七年に「寄留ノ農民五、六名ニテ開拓セシ」(札幌区市街各村之開拓ノ顚末)といわれており、この年に移民が入地してきていた。そのために山鼻村の設置となり、九月二十三日に開拓使から全国の府県へ、豊平・上白石村と共に村設置が布達された。

図-2 諸村の変遷図

 山鼻村は八年に五人の農民が自移したというが、本格的に開けていくのは九年五月の屯田兵の入植以降である。
 『移民履歴調』では触れられていないが、山鼻村の移住の最初は、四年に伏見に移住した佐藤三郎右衛門、三蔵の父子である。両人は山形県西田川郡鶴岡町(現鶴岡市)出身で、三蔵は三年に円山へ移住した山形移民に従い来札し、四年に伏見に地所を得、家族を呼び寄せた。この時、東田川郡十六合村(いざあいむら)の加藤多右衛門、八栄里村(やえざとむら)(ともに現余目町)の檜山石蔵がともに移住した。これ以降、同郷人や一族の系累などが後を追って移住し、特に九年には一一戸も移住している。
 伏見はこのようにして形成されたので、集落としてもまとまりをもつ〝模範村〟とされた。なお、伏見の移住の動向と部落の形成は、『伏見史稿』に詳細である。