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殖民方法概則と屯田兵例則

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 建議では二年で一五〇〇戸(兵員一五〇〇人、家族とも六〇〇〇人)移住としていたが、裁可にあたりこれを三年にわけ、初年度はまず札幌と室蘭へ移そうと考えた。その施行案を検討する過程で、建議に盛り込んだ戸数(兵員)を変えず大幅に予算を削減せよとの指示を実現する方法が論じられ、道内招募と道外招募の比率や道内居住者の便宜的な編成方法が検討された。
 まず、道内招募のため「殖民方法概則」を定めた。これによると居宅を変えず現住地にあるまま兵伍編入を希望する者には、兵員となる当人のみに扶助を与え、家族とともに指定の地に転居する兵員には、家族を含め三年間の扶助を与えることにした(開拓使公文録 道文五七九四)。この概則によって招募した者を「殖民兵型」屯田兵と以下記述する。この内居宅を変えず現住地にあるままの兵員について、練兵の不便、非常時緊急召集の困難、授産事業の不合理等が指摘され、その募集を当面見合わすことになったが、これは十年に屯田予備兵として制度化された。そして挙家移住者のみを対象とする招募の布達が出たのは七年七月十三日である(同前 五五七二)。
 本州から招募する屯田兵に、この殖民兵型屯田兵を合わせ、建議に基づく兵制を明示したのが、七年十月の「屯田兵例則」である。それによると、屯田兵は徒歩憲兵に編制し、有事には速やかに戦列に加わるものとし、勤務と休暇を定めた。給助については挙家移住であるから居宅を与えるとともに支度料、旅費、日当、駄賃を給し、兵員と家族を三年間扶助する。たとえば一五歳以上は米一日七合五勺、塩菜料一カ月五〇銭が与えられる。武器類は一切官品の貸付で、農具家具は給与物である。農具では鍬(大小各一)、砥石(荒中各一)、山刀(一)、鑢(やすり)(一)、鐇(おの)(一)、鋸(一)、鎌(柴草各一)、莚(むしろ)(一〇)を、家具では鍋(大小二)、釜(一)、椀の三つ組(三)、手桶(一)、小桶(一)、担(一)、夜具(家族数と年齢により差あり、一五歳以上は四布一、三布一)を支給されたほか、病気の医薬料と死亡時の埋葬料も定められた。土地については第六編四章で述べる。

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写真-2 屯田兵に給与された道具類(北大図)

 この兵制を統括するために開拓次官黒田清隆が屯田憲兵事務総理を兼任することとなり、八年三月開拓使札幌本庁の機構として屯田事務局が設置され、四月二十八日開局する。これを屯田局と改めようとするが許されず、開拓使廃止にともない陸軍省所轄に変わり、のちさらに名称を屯田兵本部屯田兵司令部と改めた。屯田兵の大隊本部は地方機関であるから、本来これとは別個に開設されるものであるが、札幌は本庁のお膝元であり、大隊長は開拓使の職員でもあったから、独立した施設をもたなかった。それが分離するのは十八年で、翌年現中央区大通西一〇丁目に庁舎を新築移転した。