ビューア該当ページ

神仏分離と札幌

402 ~ 402 / 1047ページ
 明治政府は成立直後の慶応四年(一八六八)三月に神祇官を設置し、同月、神道を確立するためいわゆる神仏判然令を布告し、これまで長く続いてきた神仏混淆の整理を命じた。さらに政府は全国の主要神社の社格を定めるなど、神社に関する国家的統制がその緒につき、しだいに整備されていった。
 一方、開拓使設置当時、現札幌市域内の社寺は、発寒村の稲荷社、篠路村の八幡社、それに札幌村の妙見堂の三つの小祠があるだけであった。しかし札幌本府が創建され、さらに周辺にも移民が招来されて次々と村落が設立し、札幌が北海道開拓の行政的中心に位置づけられたことによって札幌神社が創置され、その他本府、村落部にいくつかの小祠が創建された。このうち、本編の時期には三吉神社だけが公認され、明治二十年代にはさらに小祠が増加したものの、公認はわずか二社にとどまった。そして三十年以降、北海道庁の行政方針とも関わって、続々と公認神社が創出されていくことになる。