任期が迫ったクラークは、十年四月十六日、農学校教師・職員・生徒らに見送られ札幌を離れた。島松では生徒たちと別れるに当たって、“Boys, be ambitious”「少年よ、大志を抱け」の一句(おそらくは“like this oldman”「この老人のように」という意味の言葉が後に続いたと思われる)を残して去った。もっとも、当時クラークには開拓使との間で雇用契約を継続する話が出ており、島松別離の時点でも、彼は開拓使との関係が再び生ずる可能性があると考えていたはずである。しかし、クラークの雇用継続と再来日は実現しなかった。
一期生の受洗について、クラークは離札後函館に立寄り、メソヂスト監督教会のM・C・ハリスに会い、後事を託した。クラークは会衆派の教会員であったが、彼の属していたアマースト第一会衆派教会は、他教派との協力を掲げている教会であった。ハリスもまた、他教派に対して幅広い関係を持った宣教師であった。やがて札幌に赴いたハリスは同年九月二日、佐藤昌介、内田瀞、大島正健、渡瀬寅次郎、柳本通義、黒岩四方之進ら、伊藤一隆を除く一期生一五人全員に洗礼を授けた。
洗礼式があった翌九月三日には彼らは受洗感謝会を開いていた。その夜新入の二期生が札幌に到着したが、だれも迎えに出ず、讃美歌だけが聞こえてきた。二期生の一人宮部金吾はそのとき、「官立学校の札幌農学校において、かくも耶蘇(ヤソ)化されていたのか」と思ったという(逢坂信忢 クラーク先生を語る)。一期生の熱烈な伝道によって、二期生のうち一五人が「イエスを信ずる者の契約」に署名した。内村鑑三によれぼ、そのうち七人が一期生によって大挙襲撃され、いわば「入信を強要され」、翌十一年六月二日ハリスから洗礼を受けた。内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、宮部金吾、広井勇、藤田九三郎、足立元太郎、高木玉太郎の七人である(二期生のうち佐久間信恭は来札以前に受洗)。
こうして二期生の中にもキリスト教が伝わった。校内での毎週の聖書研究会は、ホイーラーやペンハロー、W・P・ブルックスらの指導によって続けられた。この一・二期生によるキリスト者青年集団は、後世「札幌バンド」と名付けられ、横浜・熊本とともに札幌が、日本のプロテスタントにおける三源流の一つに数えられるに至った。