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報国社と福岡県人の移住

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 報国社は十三年頃に福岡で設立された移住結社である。同社の目的、構成、計画などについては、十三年九月十四日に福岡県令に提出された「北海道開拓志願ニ付歎願」(開拓使公文録 道文四四三七)に詳しく記されている。報国社の目的は、「原野ヲ開拓シ、自ラ力食シ士族ノ就産ヲ目的トス」とされ、「士族ノ就産」がうたわれている。しかし人名簿に登載された八九人のうち、士族は二二人しかおらず、目的と実際の構成は合致していない。社則では平民の入社も許すことを明記しており、「士族ノ就産」は本来の目的ではなく、むしろ移住希望者の結社であったといえる。
 報国社では福岡県や開拓使へ移住費の補助を再三にわたり請願しているように、「同志人名ノ内貧究ノ者多」(福岡県移民取裁録)い集団で、移住費の捻出にも苦心し、地元の『福岡日日新聞』(明治十三年十二月二十六日)にも広告を出し寄付を呼びかけていた。
 報国社を組織したのは片村熊太郎である。彼は十四年二月に開拓使から実地調査の要請をうけ、間もなく来道して調査した結果、月寒村厚別から輪厚までを適地と認め、六月十二日に五〇〇戸分一五〇〇万坪の割渡しを出願した。開拓使では移住の戸数に応じて割渡すことにしたが、報国社では月寒村三里塚(現豊平区里塚)に本拠をおき、十四年十一月に第一回移民が入地した。その戸数・人数は、四五戸一四一人(第四回福岡県勧業年報)、五九戸一一二人(開拓使事業報告 渡航支給表)、五四戸二〇九人(同前 移住給与表)、一七一人(函館新聞 明治十四年十一月十四日)と一定していない。
 第二回移民は翌十五年十月に入地した。この時の人数は、『月寒村福岡県移民現況調査復命書』(市史 第七巻三四八頁)では、六五戸二一一人となっている。しかしこのうち渡道後に報国社へ入社したのは三一戸八九人で、二〇戸は当別への移住を計画し、一四戸は「其住分明ナラサレ共亦当市街其他へ散在」したという。当初から六五戸すべてが報国社の移民であったのかは不明であるが、ここで三四戸が報国社を離れたのには理由があった。
 報国社は最初から資金面に不安があり、移住した人びとも「貧窮」層であった。この不安が入地間もなく報国社の解散と移民の離散、生活窮乏となってあらわれ、同じく福岡県から移住した開墾社とともに社会問題となった。離散した移民のうち、豊平村へ九戸五三人(第一回移民)・一二戸五六人(第二回)、平岸村(現澄川)へ九戸二五人(第二回)、白石村へは九戸五一人(第一回)が転住した。第二回移民は遠賀郡(おんがぐん)山鹿村(現芦屋町)出身者が二一戸七〇余人おり、このリーダーには作田孫兵衛があたっていた。彼の誘導による移民も、十八年四月に一六戸六三人が豊平・平岸村に移住している。しかし、両村の移住者はその後定着することなく四散し、報国社の名とともに消えていった。