開拓使は、北海道開拓のためにお雇い外国人を多く起用していた。その一人ケプロンは第一報文のなかに、「食物改良」論を掲げている。ケプロンは、移住民の食料改良を重要課題とし、北海道が日本人の常食の米穀の所産に不適当なことは、すでにアンチセルも述べているところであるが、これに従ってこれに代わる滋養価値多く、かつ適用穀類の小麦等の雑穀をもって食生活の改善をはかることを提案している。さらに具体的方策として、「札幌ニアル小粉磨ニシテ、小麦、玉蜀黍、大麦、蕎麦、燕麦、裸麦ノ粉或ハ米粉ヲ製スベシ。北地ノ人民ハ各種穀類の用方竝ニ製法等ヲ知ル者罕ナレバ、此粉磨ハ之ヲ教ルニ最モ緊要ノモノト云ベシ」と述べ、粉食を提案している(ホラシ、ケプロン初期報文摘要 新撰北海道史 第六巻)。アンチセル、クラークなども同意見であった。これらお雇い外国人の意見に従って開拓使は、漸次パンおよび鹿肉などをもって洋食を奨励しようとした。とくに、お雇い外国人が横浜や東京から同伴したコックたちは、お雇い外国人の食事を調理しただけでなく、農学校寄宿舎生徒の洋食の賄方も務め、札幌の洋食普及の先駆者となった。彼らは、牛乳、バター、チーズ、ハム等といったこれまでの日本人の食習慣にないものを持ち込んだ。
札幌においては、このような洋食はとくに官吏や、八年に東京から札幌に移転した開拓使仮学校や女学校などの生徒を対象に奨励された。まず、パン食を常食とすることが決められ、男女生徒一日一人二斤の割で、一〇〇人分の小麦粉七万三〇〇〇斤を用意し、米はライスカレーのほかに使用を許さなかった(新北海道史 第三巻)。また十年九月開拓使は、全道一般に食物改良の諭達を発し、官吏に率先して実行、指導することを命じた。北海道は米産が少ないので多くを移入に求めなければならないが、北海道には米に代わる大麦、小麦、稗、黍、馬鈴薯などがあって主食に代えることができる。栽培労力がいらないうえに収穫も多く、しかも栄養もあり、さらには家畜の飼料ともなるので、今後は道産出の穀物を食料とするよう留意すべしといった内容であった(同前)。
札幌県時代では、札幌県令調所広丈が熱心な食物改良論者で、毎日自宅でパンを焼き、これを役所に持参して、部下に与えて奨励した。また、勧農協会を通じて農作物の作付、その調理法の改良を積極的に指導した。十八年十二月、札幌区にある勧農協会では、農事の進歩と食物の改良をはかるために、規約を作って広く一般に会員を募った。その規約趣旨は、①本道が麦菽黍薯類の生産に適しているのに、常食である米を本州に依存しているのは、本道開拓にも支障をきたすので、本道産物を常食とする食物改良を主唱するものである。②小麦を常食とした場合、滋養は米の一〇分の四で足り、日本人に多い消化器病の防止ともなる。③食物改良が成功すれば、麦、豆の耕地や牛羊豚肉の牧場が増加し、開拓も進み人も集まって交通の便もよくなり、乱酔狂暴の習慣を脱することができるであろう(札幌県報)といった内容であった。
このような趣旨のもと、官によって食物改良の普及および奨励策が実行されたが、一般の関心は薄かったようである。それは、六、七年頃から石狩平野でも米の試作に成功し、米作が漸次増加したこともあるが、長年の食習慣を変えることは容易ではなかった。
ところで十五年の第三回札幌農業仮博覧会では、札幌県後援のもとに農話会が開催された。勧農協会の中山久蔵、早山清太郎ら一五人と、札幌農学校出身の勧農課員新渡戸稲造、町村金弥ら二〇人が出席したが、席上「農家の常食の種類」では、米食論と非米食論とが対立して大激論となった。指導者と農民との意識・見解の相違を如実に示すものであった(新北海道史 第三巻)。