札幌市民の不景気による流出は七年にいたってもとどまらず、同年七月警邏課の調査では、市中九六三戸中一九六戸が出稼のため空家になっている始末であった(開拓使公文録 道文六〇二三、北海道史料開拓使時代乙 道図)。同時期の札幌の旅籠屋清水三次郎が十文字龍助宛書簡のなかで、「当所之儀先年より拝変人灯日々ニ脱籍或ハ転住既ニ去月空家御改メ弐百七十三戸実ニ心細キ姿ニ御座候」(市史 第六巻)と述べていることによっても、衰退ぶりが窺われる。松本大判官は、この惨状を打開するべく同年七月十二日付で札幌市中正副戸長に宛て、「演舌書」を出し、「業間耕圃ヲ開キ麦粟ヲ収メ飢餓ノ資ケニ供ス」ことを奨励した(開拓使公文録 道文六〇二五)。この松本の対策は、翌八年四月実行に移され、市中人民で農業志願する者へ地所を貸付け、官費荒起こしのうえ農事を授けることとした。その場所とは、本庁の西側琴似川の支流に挟まれた地域で一四万七〇〇〇余坪の土地が予定された。実際に二九戸が農業志願して農地が給与され、うち窮民一六戸には農具と掃寄米(はきよせまい)とが給与された。
これらのほかに不況対策として、『札幌昔日譚』によれば、製網や製麻の事業が盛んに奨励され、市中商人の男女ともに出面(日雇)として土木工事や官園の畑仕事、さらには篠路から札幌市中までの米の運送などに従事してかろうじて危機を乗りこえたと伝えられている。
六、七年の不景気は、札幌市中の人口の激減をも招いている。表5は、五年から十年までの戸口表であるが、六年の人口が前年の三分の一に減っているのが知られる。
表-5 札幌市中戸口表(明治5~10年) |
年 | 明治5 | 明治6 | 明治7 | 明治8 | 明治9 | 明治10 |
戸 | 556戸 | 709戸 | 811戸 | 866戸 | 884戸 | 1001戸 |
口 | 916人 | 306人 | 2161人 | 2766人 | 2615人 | 2764人 |
『札幌市史概説年表』より作成。 |
その後も不景気はくりかえされ、十六年の場合、「市中空屋四百戸ばかりあるいは百戸位、大方は皆空知樺戸の両集治監と幌向炭坑へ出稼に」(函館新聞)いくと、札幌は早くも労働力の供給地となっていた。