このような伝染病予防対策も開府まもない開拓使の施策の一つであった。五年七月、開拓使は札幌市中へ出した達書中に「往来御許無之場所へ水ヲ流シカケ或ハ不浄ノ品ヲ投ケ捨溝堀へ塵芥ヲ投入候義不相成事」(開拓使布令録)と注意をうながした。また六年には、塵芥取捨場を定めたり、七年には、道路に不浄のものの投棄を禁じたり、八年には、大小便所の設置をうながした。これらの施策は、十年の「違式詿違条例」に盛り込まれ、その基本は北海道の首都としての模範的な街づくりにあった。
十年八月、札幌区内戸長総代に宛て道路清掃の徹底、貸邸や所有地の清掃義務、川堀・下水の浚渫喋等にいたるまで区内告諭するよう達した。次いで十二年には便所と下水の改良について諭告を発し、清掃を区役所の重要な衛生事務の一つとした(開拓使事業報告)。
十五年には、「街路取締規則」や「市街掃除規則」を定めて道路の使用の方法、掃除責任者を定めた。特に掃除規則ではその責任範囲をすべて現住者責任とし、家屋が街路の両側にある場合は中央から折半、片側の場合は全路、空屋・空地の周囲は家主・地主の責任とした。さらに下水の浚渫修理等は地主の責任とし、汚物の運搬処理については、居宅周囲の道路はよく掃除し、その塵芥は区役所指定の場所に投棄することを定めて道路の中央に積置き、また川に投棄することを禁じた。また同年はじめて衛生委員制度を設け、町村内の住民の出生・死亡の届出から市街道路等生活環境全般にわたっての衛生管理・監督、伝染病予防対策、貧民救済にいたるまでのかなり広い権限を持ち、戸長を補佐するものであった。これははじめ公選制であったが、十八年戸長がその事務を取扱うことになった(明治十八年札幌県布令全書)。