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殖民政策の転換

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 岩村長官は二十年五月に新官制によって任命された全道郡区長を召集して、彼の施政方針を演説している(岩村長官施政方針演説書 新撰北海道史 第六巻)。ここで岩村は「単純簡易ノ構造ヲ以テ」「殖民地適当ノ政治ヲ敷カシ」め、もって「拓地興産ニ緊要ナル事業ヲ起サシムル」のが道庁設置の趣旨であるとし、その「趣旨ヲ体認シテ、考案計画」した、「政務更張」と「将来施設スベキ」事業について述べている。「政務更張」の事業とは、従来の施政で修正を要するもので、これはすでに実現もしくは着手したとして以下の事業を挙げている。すなわち(1)函館・根室両支庁の廃止、(2)郡区長の警察署長兼任、(3)教育の簡易化、(4)官営諸工場の払下げ、(5)水産税軽減と出港税廃止、(6)官貸金の棄捐である。
 ついで「将来施設スベキ事業」では、(1)地理の測量、(2)殖民地の選定、(3)産鉱地の測量、(4)港湾修築と灯台建設、(5)道路の開通、(6)手引草の編集、(7)農工業の奨励、(8)水産物製造の改良と販路の拡張、(9)共有山林の設置、(10)墓地の取締、(11)馬匹の改良、(12)駅伝旅店の注意を列挙している。これらの事業をみると、一つには、測量・殖民地選定・港湾・道路に駅伝等、拓殖興産の基礎・基盤にかかわる事業と、二つには、鉱山測量・手引草・農耕奨励・水産物製造改良等、直接ないし間接的にも実業の振興にかかわる事業とに分けられ、特に前者に重点が置かれている。
 また岩村は十九年六月に、十九年度(この年より会計年度は四月一日開始翌年三月末日までと改定)の道庁予算二五〇万円(通常費一八〇万円、準備費二〇万円、新起事業費五〇万円)のうち、新起事業分の計画内訳を上申している(公文類聚 民業)。それをみると「殖民上須要ナル事項ニ就キ起業ノ緩急将来ノ得失等ヲ査覈シ先ツ其最モ緊急ノ者ヲ択」んだ事業二二件のうち、巨大資本を要する実業振興事業六件(屯田兵増殖・郁春別炭鉱開坑・郁春別炭鉱鉄道建設・空知煤田地質測量・幌内鉱山営業資本・郁春別開坑営業資本)と本庁新営を除き、他の一五事業は全て拓殖興産の基礎・基盤事業に充てていた(岩見沢空知間鉄道線測量・室蘭鉄道線測量・鶉越山道開削・室蘭郡塵別新道開削・雁来対雁両村間道路改築・定山渓道路開削・琴似村道路開削・亀田川堀割・札幌近傍排水・釧路湾測量・釧路網走間道路線測量・上川試験所設置・土地測量・地質調査・諸畜購買)。
 以上の拓殖興産の基礎・基盤事業の重視と共に、他方で岩村は、十九年五月に農工業場存廃、六月に農工業場払下及び貸下を上申し(六月十一日認許)、また成功検査等の検束を付加した北海道土地払下規則(十九年六月二十九日)や無資力者移住保護廃止(十九年七月二十二日)を実現し(公文類聚 民業・土地・民法)、そして彼の施政方針演説で「自今移住ハ、貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植ヱン。是ヲ極言スレバ、人民ノ移住ヲ求メズシテ、資本ノ移住ヲ是レ求メント欲ス」と端的に揚言しているように、北海道拓殖政策の大きな転換を意図していたのである。
 明治十四年の開拓使官有物払下事件を契機に、開拓使ならびに北海道拓殖に対する批判が世上に勃興し、その後も三県一局制の考課も加わって、明治二十年前後は再び北海道をめぐる論議が飛び交っていた。この中で一つの焦点となっていたのは拓殖政策で、その基本として一方では開拓使・三県一局の政策を継承する直接保護・官中心主義に対し、他方で新たな間接保護・自由解放主義があった(新北海道史 第四巻一章)。ここにおいて岩村長官はまさに後者の立場をとり、明治初年以来の伝統的北海道殖民政策の転換を図ったのである。それは北海道拓殖問題の内的必然性によるものというよりも、むしろ二十年前後にもたらされた日本の政治的・経済的・社会的転換に即応するものであったといえよう。
 岩村長官の拓殖政策は以降継承されていくのであるが、二十五年七月に就任した四代目長官の北垣国道によって、その拓殖政策の方法において一歩前進を見せる。二十六年三月二十五日内務大臣に提出した「北海道開拓意見具申書」(新撰北海道史 第六巻)によると、北垣は道庁の使命を「北海道十一ケ国ヲシテ、拓殖ノ実ヲ挙ゲ、町村自治ノ力ヲ養成シ、北海全道、四肢百骸、尽ク具備シ、気脈貫通、血液循環健壮ニシテ、独立ノ動作ニ、乏シカラザルノ域ニ、至ラシムルヲ期ス」ことにあるとしている。そのための本道拓殖の事業は「殖民ヲシテ移住、拓地運輸ノ上ニ於テ、十分ナル便利ヲ与フベキ」ものと、岩村と同じように、拓殖を進展させるための基礎・基盤の整備を主眼とした。その具体的事業に、(1)地形測量、(2)殖民地選定測量、(3)鉄道、(4)港湾、(5)電信灯台、(6)道路橋梁、(7)駅逓、(8)排水運河、(9)土地配賦市街地区画、(10)町村組織、(11)衛生、(12)実業教育、(13)勧業、(14)森林植樹を挙げている。
 そしてさらに、一定の政策に基づき、特定の事業を計画推進していくためには、「如何ナル事業ヲ為シ、幾許ノ金額ヲ費シ、幾年ヲ経過シテ、其局ヲ結ブベキヤ。之ヲ予メ計画セザル可ラズ。明細ニ其計画ヲ定メ、緻密ニ其組織ヲ為シ、始テ北海道、拓殖基礎ノ確立ヲ見ル可キ者ナリ」と陳述している。いわば北海道拓殖事業の確立のためには、将来の見通しの下に事業を確定し、その完成に至るまでの金額と年月との明細緻密な計画によって推進すべきことを説くのである。ここにおいて初めて、綿密な計画に基づいた拓殖政策の樹立を提示したのであった。北垣のこの開拓計画は日清戦争によって実行するに至らなかったが、この方法は明治三十年代以降の拓殖政策の基本となっていくのである。