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区費

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 住民の自治権の希薄さは租税負担力と複雑に絡みつつ、生活基盤の整備や住民組織の充実に向けて努力が続いた。県治下の北海道民は全国一の重税を負担し、国税、地方税(現道税)、協議費と呼ばれる賦課金(現市町村税)を合わせると一人平均年間四円六三銭になり、最少の鹿児島県民の一円六〇銭にくらべると三円三銭も多く、東京府民の二円二四銭とくらべても二倍強にあたったという(札幌区史)。こうした租税負担の内、総代人会を通して住民が意志表示できたのは協議費(賦課金)であり、これを主要な資金として編成される財政を札幌区費という。その概要をみることにしよう。
 二十二年と一〇年後の三十二年の区費を比較すると表3のようになる。収入では札幌県治下の十七年予算で七六・二パーセントを占めた協議費の割合が三割台に減じたことが特徴である。このことが必ずしも区民の負担減につながっていないのは雑収入の増大にみられる。これは小学校の授業料徴収と二十三年道庁から区に移管された病院の患者治療賄料が大半を占め、税外の受益者負担額が増大した結果であった。区単独の事業を拡大しようとすれば区民への直接賦課を引き上げざるをえず、不動産収得割、反別割等を新設して増収につとめ、在来の戸別割、営業割等の上のせをはかり、三十二年は二十二年に比して賦課金は実に八・三倍に達した。なお不足分は積極的に寄付金を求め、さらに区債を募集したが、区費総額(区財政)の伸びは賦課金がどこまで可能であるかが基本であったといえよう。
表-3 明治22・32年度 区費増減の比較
【収入の部】
 明治22年度明治32年度増 減備 考
財産収入-円9813円6008.2%9813円600貸地,貸家,墓地,利子
雑収入10500. 78865.6 63242. 85052.5 52742. 062学校授業料,病院,寄付金
国庫補助金7000. 0005.8 7000. 000土木費補助
前年度繰越金666. 1454.2 500. 0000.4 -166. 145
区費賦課額4832.79030.2 39944. 55033.1 35111. 760
地価割170. 000
反別割8574. 000明治31年より
不動産収得割750. 000明治30年より
戸別割17316. 710
営業割7203. 840
所得割5930. 000
合 計15999. 723100120501. 000100104501. 277 
【支出の部】
 明治22年度明治32年度増 減備 考
会議費71円1240.4%186円0000.1%114円876 
区費取扱費1395. 0001.2 1395. 000
区費滞納処分費5. 0000.1 5. 000
土木費2816. 95317.6 28340. 00023.5 25523. 047
衛生費132. 0080.8 958. 8000.8 826. 792
病院費43201. 51035.8 43201. 510
教育費9711. 55760.7 37262. 00030.9 27550. 443
教育補助費360. 0000.3 360. 000
警備費2996. 91918.8 3400. 0002.8 403. 081
救助費569. 4000.5 569. 400
基本財産造成費3888. 4903.2 3888. 490
財産管理費464. 5000.4 464. 500
諸税及負担100. 3000.1 100. 300
公借金償還300. 0000.2 300. 000
雑支出70. 0000.1 70. 000
次年度繰越金271. 1621.7 0  -271. 162
合 計15999. 723100120501. 000100104501. 277 
1.支出の部の費目は経常会計と臨時会計を合算した。
2.明治22年度は『札幌区史』から決算、32年度は『総代人必携』から予算をとり作成。

 これによる区民一戸平均の負担額は二十二年に六一銭五厘だったものが二十五年には二円一銭となり、滞納者の急増をもたらした。しかし財政負担力を強化することは自治権の伸張に不可欠とする意見が支配的だったので「此の負担額、前年来の比較に於ては如何にも驚く可き増額なれども、元来札幌区の負担額は他郡区に比して尤も少額なりしことを思へば、前記(二十九年度予算、略)の増額は敢て不当にあらざる可きも、一時に斯く増額したることなれば、其影響する所決して尠少ならざる可し。要するに区民は右増額に対する負担を覚悟せざる可からず」(市史 第七巻一一〇一頁)との判断が大勢であったと思われる。函館にのみ許された区会の札幌実現をめざし、道都への歩みを確実にするために、区民は少なからざる負担に耐えたのである。
 区費の支出内容は札幌区が取り組んだ事業を端的にあらわしている。第一は教育の振興であった。十七年予算で小学校の設置運営にふり向けた区費は五九・八パーセントを占め、学務委員費を加えると教育費の比率は実に六三・四パーセントに達する。教育振興が大きな課題であったから、その後の財政に影響したことは当然で、二十二年は六割をこえ、三十二年をみると三割を占める。これは二十三年から病院が区の事業に移管されたために相対的比率を低下させたことによるが、金額でみると二十二年一万円弱の教育費は一〇年後に三万七〇〇〇円を越えた。収入面では授業料が約一万円見込まれたが、あとの二万七〇〇〇余円は賦課金に頼らざるを得ず、学田造成などが必要となっていった。
 第二は衛生病院事業である。道庁から札幌病院の運営を区に移管され、特異な事業として充実発展に努めたため、三十二年予算では病院費の比率が最高となり、衛生費を加えると三六・六パーセントを占めた。ただ教育費とちがい、その財源を賦課金に頼らず、受益者負担によったため、病院経営が財政を圧迫したことにはならない。三十二年を例にみれば、札幌病院の外来入院往診料の収入が四万三九五〇円見込まれ、支出が四万三二〇一円余なので病院収入の七四八円ほどを他事業に振り向けたことになる。第三は土木事業で、道路下水溝公園造成などに投じた。道庁の事業とはちがい、より身近な生活環境をどう整備し住みよいくらしを実現するかが課題で、一〇年間にその費用は一〇倍に伸び、以後も額と率を増していくことになる。
 区費総収支額でみると、札幌県治下の十七年が五六三七円余で、道庁ができて間もない二十二年が一万五九九九円余なので、この五年間に二・八倍になったが、その一〇年後(三十二年)は一二万五〇一円と七・五倍に膨張した。札幌県治時代の二一・四倍であり、条件の違いから金額面だけで比較するには問題があるものの、区財政が拡大発展の方向にあったことが理解できよう。