この運河計画は、二十八年五月九日付『北海道毎日新聞』(以下道毎日と略記)付録の担任技手・岡崎文吉談によると、次のような計画である。札幌・茨戸間運河の開設目的は、排水、運送用運河、水量の許すかぎり灌漑、水力利用である。長さ二里二五町一二間四尺七寸、最低水深四尺、底面幅二四尺とする。幅一八尺、長さ七〇尺の閘門を八カ所設置し、蒸気船の通航は不可とする。船入場は札幌の線路基点に長さ二五〇尺、幅六〇間のものを設置する。花畔・銭函間の目的は、運輸、排水、水量の許すかぎり灌漑、水力利用である。銭函村での鉄道への連絡も目的とする。長さ三里二六町二間五尺、水深三尺五寸、底面幅一二尺とする。軽川大排水(現新川)から取水し、そこから花畔方面と銭函方面へ通水する。三カ所に長さ五〇尺、幅一二尺の閘門を設置する。蒸気船の通航は不可である。銭函の船入場長さ二八〇尺、幅一五〇尺のものを設置する。また砂地を開削することについては、時々の浚渫と沿岸への防風林の設置で運河の維持が可能であるとしている(図1)。
図-1 花畔銭函間及び札幌茨戸間運河線平面図
『北海道毎日新聞』明治28年5月9日付より作成
工事は二十八年に開始されたが、経費のかかりすぎる難工事であったため、工事入札に応募する工事請負人が居らず、道庁の直営工事として施工された。三十年に一応竣工するが、多くが砂地の開削であったためか開削した端から崩れていったと新聞記事には記されている。また三十一年の洪水のときには堤防部分が崩壊し、三十一、三十二年には浚渫工事を盛んに行っている(道毎日)。岡崎氏の計画通りにはならなかったようである。
この運河のうち創成川にあたる部分は途中に水閘門の設置などを行って、その後昭和期まで利用された。花畔・銭函間については、途中の新川をはさんで石狩側と銭函側で差が出た。銭函側は水量も豊富で、銭函と手稲村山口との間の輸送路として利用された。しかし石狩側は石狩川の水位より運河底が高かったため水量が足りず、運河としての利用はできなかった。しかし花畔・樽川にまたがる原野の排水に効果があった(北海道殖民状況報文 石狩国)。三十四年の新聞記事には、表5のような運送実績が載せられているので、一応は通航したようである。
表-5 札幌銭函間及び銭函花畔間運航実績 |
札幌~銭函 | 銭函~花畔 | ||||
閘門番号/船数 | 貨物 | 船数 | 貨物 | ||
7月 | 56 | 4019 | |||
8月 | 第七 59 | 518 | 99 | 2960 | |
9月 | 〃 185 | 7053 | 80 | 1902 | |
10月 | 〃 242 | 8726 | 488 | 17303 | |
11月 | 〃 6 | 150 | 224 | 7110 | |
計 | 492 | 16447 | 947 | 33294 |
『北海道毎日新聞』明治34年12月14日付より作成。 |