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札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削

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 二十六年、道庁長官として元開拓使の役人で京都府知事も歴任した北垣国道が任命された。北垣は京都府時代に運河を開削したことで名をあげた。北海道の交通網の整備の必要性を主張していた北垣は、京都府時代の政策を北海道にもあてはめようとした。それが、銭函と札幌を運河で結ぼうというものであった。札幌・銭函間運河は前述のように明治三年に一部実行に移されたが、市街地から琴似川まで開削して中止された。しかし今度の路線はその路線とは違った。十九年に創成川はさらに琴似川から茨戸まで開削されて茨戸まで通じた。新たに開削された部分を当時琴似新川と呼んだ(事業功程報告 明治十九年度)。これで現在の創成川は原形が完成した。北垣の運河はその運河に加え、石狩川を通じてさらに花畔から銭函までの運河を開削し、札幌と銭函を運河で結ぼうというものである。
 この運河計画は、二十八年五月九日付『北海道毎日新聞』(以下道毎日と略記)付録の担任技手・岡崎文吉談によると、次のような計画である。札幌・茨戸間運河の開設目的は、排水、運送用運河、水量の許すかぎり灌漑、水力利用である。長さ二里二五町一二間四尺七寸、最低水深四尺、底面幅二四尺とする。幅一八尺、長さ七〇尺の閘門を八カ所設置し、蒸気船の通航は不可とする。船入場は札幌の線路基点に長さ二五〇尺、幅六〇間のものを設置する。花畔・銭函間の目的は、運輸、排水、水量の許すかぎり灌漑、水力利用である。銭函村での鉄道への連絡も目的とする。長さ三里二六町二間五尺、水深三尺五寸、底面幅一二尺とする。軽川大排水(現新川)から取水し、そこから花畔方面と銭函方面へ通水する。三カ所に長さ五〇尺、幅一二尺の閘門を設置する。蒸気船の通航は不可である。銭函の船入場長さ二八〇尺、幅一五〇尺のものを設置する。また砂地を開削することについては、時々の浚渫と沿岸への防風林の設置で運河の維持が可能であるとしている(図1)。

図-1 花畔銭函間及び札幌茨戸間運河線平面図
北海道毎日新聞』明治28年5月9日付より作成

 工事は二十八年に開始されたが、経費のかかりすぎる難工事であったため、工事入札に応募する工事請負人が居らず、道庁の直営工事として施工された。三十年に一応竣工するが、多くが砂地の開削であったためか開削した端から崩れていったと新聞記事には記されている。また三十一年の洪水のときには堤防部分が崩壊し、三十一、三十二年には浚渫工事を盛んに行っている(道毎日)。岡崎氏の計画通りにはならなかったようである。
 この運河のうち創成川にあたる部分は途中に水閘門の設置などを行って、その後昭和期まで利用された。花畔・銭函間については、途中の新川をはさんで石狩側と銭函側で差が出た。銭函側は水量も豊富で、銭函手稲村山口との間の輸送路として利用された。しかし石狩側は石狩川の水位より運河底が高かったため水量が足りず、運河としての利用はできなかった。しかし花畔・樽川にまたがる原野の排水に効果があった(北海道殖民状況報文 石狩国)。三十四年の新聞記事には、表5のような運送実績が載せられているので、一応は通航したようである。
表-5 札幌銭函間及び銭函花畔間運航実績
札幌~銭函銭函~花畔
閘門番号/船数貨物船数貨物
7月564019
8月第七 59518992960
9月 〃 1857053801902
10月 〃 242872648817303
11月 〃  61502247110
4921644794733294
北海道毎日新聞』明治34年12月14日付より作成。