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東区の状況

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 次に東区の場合をうかがってみよう。『東区拓殖史』に掲載された「移民系譜」は、大正十五年頃までの現在の東区内に居住していた家の戸主、当時の地区名、出身地、移住年、入植者以降の系譜からなり、すべて八一五人からなる。地域は旧区村名になおすと以下のとおりである。
 札幌村―元村、元村町、元村街道、烈々布(一部篠路村レツレップを含む)、中通、鉄東。苗穂村苗穂村、上苗穂、三角通、下苗穂。丘珠村―丘珠。雁来村―雁来。篠路村―中野、福移。札幌区―鉄東。
 以上の地域につき「移民系譜」から判明する移住年を、Ⅰ期―幕末から明治九年まで、Ⅱ期―明治十年から十九年まで、Ⅲ期―明治二十年から二十九年まで、Ⅳ期―明治三十年から四十五年までと四期に区分し、府県ごとの移住者数をまとめると表9のようになる。「移民系譜」は大正十五年当時の居住者の九割を網羅したかなり正確度の高いもので、表9から札幌ほか四カ村を中心とした移住状況をつかむことができる。
表-9 東区移住者の出身府県
府県名Ⅰ期Ⅱ期Ⅲ期Ⅳ期
青森1人4人5人
岩手83人512人28
宮城1251220
秋田224
山形733922
福島22
茨城11
栃木112
群馬11
埼玉11
東京11
神奈川11
新潟184141450
富山3116274150
石川131418
福井616252875
山梨112
長野2147
岐阜235
静岡11
三重11
滋賀1113
大阪11
山囗11
徳島191020
香川11316
愛媛11
福岡63211
熊本33
鹿児島11
合 計4753149195444
1.Ⅰ期-幕末~明治9年、Ⅱ期-明治10~19年、Ⅲ期-明治20~29年、Ⅳ期-明治30~45年。
2.『東区拓殖史』の「移民系譜」をもとに作成。

 それによるとⅠ期は四七人が判明し、庚午一~三村、札幌新村の移住が岩手・山形・新潟県から行われたことを反映し、上記の諸県の移住者が多い。Ⅱ期は五三人が判明し、富山・福井県が多い。そして二十年代の移住を伝えるⅢ期をみると、富山県が圧倒的に多く、ついで福井・新潟県となっている。これがⅣ期に及んでもやはり富山県が圧倒的に多く、ついで福井・新潟・石川・岩手・宮城・徳島県が続いている。
 富山県出身者が集中しているのは烈々布と丘珠である。丘珠にはⅡ期六人、Ⅲ期三〇人、Ⅳ期二二人おり、烈々布はⅢ期一一人、Ⅳ期二二人となっている。丘珠村は元山形県の移民より形成されたが転出者が相次ぎ、そのあとを富山県移民が入植し、さらにさかんに呼び寄せをおこなって丘珠村の奥地や烈々布に入植していったと思われる。札幌村の新川(創成川)沿にある旧札幌農学校第三農場には四十一年に五六戸の小作戸がいたが、そのうち富山県出身者は半分の二八戸を占めていた。また札幌・丘珠村にまたがる烈々布の富樫農場は二八戸の小作がすべて富山県出身であった(北海道農場調査)。農場の小作戸も多かったことがわかる。
 丘珠には札幌市無形文化財第一号に指定された丘珠獅子舞がある。二十五年頃から丘珠神社の祭礼に奉納されたもので、この獅子舞は富山県西砺波郡福野町安居(やっすい)に伝わる安居獅子舞といわれている(東区今昔)。これが継承・保存されてきたのも、丘珠村に特に富山県出身者が多く濃密に分布してきたことによる。
 以上の豊平ほか四カ村、東区の事例は、移住者の出身地が移住開始の初期と後期とでは変貌してきている一般的な事例とみなせる。ところが中にはまったく変化をみないところもあった。円山村がそれである。円山村は明治三、四年に山形県から三七戸、岩手県から六戸が移住して開村した。そのために五年以降、二十三年までの新移住者の出身県をみると(円山百年史)、山形県四三戸、岩手県一七戸、長野県七戸、その他五戸となっており、八割以上が両県で占められていた(長野県は開成社関係の移住者)。これは円山村は未開地が少なく一般の移住者の入地も僅少なことにもよるが、それ以上に郷里からの呼び寄せのネットワークが形成されていたことを示している。ただ円山村の事例は稀有なものといえる。