新琴似入地に先だち、十九年から茨戸街道工事にあわせ新川の開削を進め、大排水溝による土地の改良をめざした。そのほかの排水溝は兵村道路にあわせて造られることが多かった。掘った土を路盤盛に使用することができるので併行した工事が合理的だったし用地の有効利用からも得策である。したがって排水溝は道路にそったものが多く、幅は四尺(約一・二メートル)から一間(約一・八二メートル)、延長流路一七〇〇間(約三〇九四メートル)をこえるものなど、九本が掘られた。このほかに区画内を貫通する大きな排水溝が三本つくられたが、中でも有名なのは安春川である。この排水溝は国費(道庁)事業で行われたので、兵村の住人は賃金をもらって工事に関わった。これを企画推進したのが時の中隊長安東貞一郎で、その功をたたえ姓の一字を川名にしたという。「春」については工事請負人の姓とも完工の季節が春だったからとも伝えられている。
写真-4 安春川(平成3年4月撮影)
新琴似兵村の風防林として存置されたのは一カ所で、幅一五間、延長二五二〇間(約四・六キロメートル)、この面積三万七八〇〇坪(約一二万四七四〇平方メートル)に及ぶ。現在も新琴似と屯田両町の境をなし、緑豊かな逍遥林として市民に親しまれている。
篠路兵村の道路工事は十九年に始まる旧琴似川の流路切替工事が契機となる。それまで創成川は北区中島橋の地点で琴似川と合わさり東流し伏古川に落ちていたが、これを中島橋から北方に新流路を掘削し発寒川に落とそうというもので、あわせて流路の右岸に道路をつくることにした。不備なものではあったが二十一年開通し茨戸新道と呼ばれ、のちに石狩街道といい現国道二三一号の一部である。篠路兵村ではこれと垂直方向に一~五番通と一番通の南にさらに一本(現屯田二条通)、計六本の幅六間道路をつくった。この内最長は三番通の二〇四九間(約三・七三キロメートル)である。
番通と直角に交わるように横線道を四本、一番通と新琴似兵村第二横線を風防林をはさんで連絡できるよう一一五間(約二〇九メートル)の短絡路を設けた。また、篠路兵村第二横線を新琴似兵村の第三横線に直結させたことは前にもふれた。新琴似兵村の北西に篠路兵村の追給地が置かれたので、新琴似兵村の四~六番通に接続する道路とこれに直交するものを二本つくった。篠路兵村が開いた道路はこの一六本で、用地面積は八万九六九四坪(約二九万五九九〇平方メートル)である。
篠路兵村の練兵は溝渠掘り演習といわれるほど兵村内に排水溝をめぐらす努力が続けられ、現役三年間の篠路兵員は土工作業のあけ暮だったという。まず各番通の中間、すなわち住区画の背合せ部に東西に通じる幅九尺(約二・七メートル)の排水溝を五本掘り、その最長は三~四番通の中間に位置する一九一二間(約三・五キロメートル)である。これに交わるような幅二~六間の排水溝が七本あり、内最大のものが新琴似兵村を貫流して篠路兵村にいたり、第四横線にそって北流する安春川である。このほかに新琴似兵村北西の追給地に二本掘ったので、排水溝は合計一四本の多きに及び、その用地面積は二万五二五三坪である。なお篠路兵村では洪水防止のため発寒川の改修と築堤にとりかかり、追給地となった当別村のトヨベリ川改修をも試みた。
風防林は三カ所に存置された。一つは今日消滅したが新琴似兵村風防林東端から創成川沿いに幅二八間、延長三三三間のものがあり、二つ目は安春川の西方住区画と追給地の境に幅三〇間、延長七〇二間のもの、これとT字形をなし住区画の北端を囲むのが三つ目である。これが最長で一五〇二間(約二・七キロメートル)、幅は三〇間で、二カ所とも多くの部分が今日保存されている。