龍雲寺よりかなり遅れて、二十九年十月に平岸村民から「浄土宗説教所ヲ一寺ニ引直シ寺号公称願」が提出されたが、この中で「現今(同村は)弐百五拾余戸ニ至ルト雖ドモ村内ニ未タ寺院無之、殊ニ私共ハ浄土宗信仰ニ有之候処、同(石狩)国札幌区南六条西三丁目ニ於テ浄土宗新善光寺有之候得共、近キハ壱里半遠キハ五、六里ヲ隔テ、業務繁劇ノ為メ月壱回ノ仏参モ不出来、殊ニ老幼ノ輩ハ礼仏聞法容易ナラズ、将祖先ノ弔祭、新之葬儀ニ際シテモ意ノ如ク行フ事不能」(平岸百拾年)と、同宗寺院との距離の問題をより具体的に記している。なお願出人中の檀家総代は平岸村民であるが、同書によれば創立時の檀家戸数一〇一戸のうち、本村一五戸、番外地(東裏、精進川など)四五戸、真駒内二戸、石山一四戸、簾舞一九戸、札幌区内六戸となっており、札幌区内以外はすべて平岸村のうちであるが、当時の交通事情からみるとこれでも距離の問題は十分に解決したとは考えられない。また一村で一宗派の寺院を設立することは、同時に一村の檀家で維持も可能となったことを示すが、これについては後述する。しかし、『北海道毎日新聞』には、篠路・丘珠村檀信徒総代人によって、大谷派寺院設立願の提出されていることが報じられており(二十五年十一月二十日付)、複数の村による設立・維持の場合もあったようである。