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都市の風景

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 明治二十三年秋、一人のイギリス人が数カ月間の道東・道北の旅の後、札幌に立寄った。フィレンツェ生まれの探検家A・ヘンリー・サーヴィジ・ランドー(一八六五―一九二四)である。彼は札幌の街の印象を『エゾ地一周ひとり旅』に次のように記している。
 札幌は現在の北海道の首都で、幅広い道路が直角に交叉した、かなり大きな町である。赤レンガの高いビルディングである北海道庁、裁判所、天皇のために建てられ、今は一種のホテルとして使われている公賓館(コウフイカン)〔豊平館〕、役人たちの官舎などがこの街で目立つ建物である。その上ここには主として政府が経営している製糖工場、麻や絹の製糸工場、ビール工場などがある。前者の二つの工場は「成長産業」とはいい難く、私の記憶が正しければ、これらの工場の一つは長いこと操業を中止しており、他のものも遠からず同じようなことになりそうだった。確かに政府は、この地方の農業と同様、産業についても懸命に奨励と後押しをしているのだが、その努力をもってしてもうまくいかないのである。イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどから輸入された高価な機械は錆びて朽ちるまで放置され、それらの企業を継続しようとする私企業はないようにみえる。札幌地方を農業地帯にしようとする試みも、財政的な観点からみれば多かれ少なかれ失敗だったといえるが、それでもなお、政府がある種の科学的な、それ故に見込みのある農業の方法を人々に教えるために多額の金を注ぎ込んだことは、高く評価されなければならないだろう。ここにはおよそ三五〇エーカーの大きなモデル農場があって、穀物栽培のほかに牧草播種と牧畜も行なっており、主としてアメリカから輸入した牛が飼われている。街の南方にあたる豊平川岸の牛の牧場では、盛んに牛の放牧が行なわれているが、政府への収益はわずかなものである。しかし政府は単に人々に外国の農法を教えることを目的にしているのであり、投下した労働と資金に対する直接的な収益は期待していないので、少なくともこのような結果となっているのだろうと私は思う。

 このように、一人の外国人ランドーに映った二十年代はじめの札幌の印象は、政府出資の諸工場も「成長産業」とはいい難く、また多額の投資を行った農業においても必ずしも成功したとはいい難い状況であった。ランドーは、数カ月の疲れを「アイヌの国の『ロンドン』」札幌で癒そうと思った。しかし、彼は「中途半端な文明」に悩まされ続けた。それは、人びとのざわめき、街のあかり、三味線の音色であった。一人の外国人ランドーにとって札幌の街はあまり居心地のよい場所ではなかったようである。
 一外国人の札幌の印象とは別に、二十四年発行の『札幌繁昌記』で見る限り札幌の街は、中央部には二階建てや西洋建ての商家が軒をつらね、南は大小二〇余の妓楼の立ち並ぶ薄野、そして中島遊園地があり、北は官衙、病院、官公私立学校、豊平館などの洋館を中心に官舎が並び、東側にはビール・製麻・製糖などの煉瓦造りの大工場があるという具合に都市らしくなりつつあった。また、市街に隣接する農村部も次第に開かれ、室蘭への鉄道工事も進み、さらにこの頃上川方面の開拓も始まって、文字通り札幌は奥地開拓の窓口とも中心ともなって、動揺の激しかった開拓使の頃と違って安定した発展をみせていた。