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区制施行

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 北海道区制公布後、新札幌区の区役所と区会づくりが始まる。内務省令によって北海道庁長官が任命した職員が、新組織発足まで予算収支、旅費、区費引継、区役所設置、公告式制定等にたずさわることになり、北海道庁札幌支庁職員がこれに当たった。なかでも区の区域を決め、住民と公民を調査し、区役所庁舎と位置を定めることが急務で、特に区会議員選挙への取組みは差し迫った最大の関心事であった。
 当初「庁務分割に就き差支なき様心掛け、諸事整理し居れば準備も過半出来居ることとて、二三周間にて支庁より区に引継を完了する」(道毎日 明32・8・23)ものとみられたが、財産、備品の調査、その目録と引継演説書の作成をすすめてみると「悉皆完整するは遅くも来る二十九日頃に至るべし」(同前 同年9・19)という大仕事だった。道庁では明治三十二年(一八九九)九月十六日から三日間、支庁長を召集して区制実施準備会議を開き、施行日に向けて例規の整備もすすめた。
 こうした準備過程でさまざまな問題が生じた。たとえば区制実施の延期を主張する人たちが出てきたこともその一つである。区会議員選挙への思惑から、自派の集票対策と時期の調整を画策しようとする憲政党関係者の動きだったが、世論の大勢は区制早期実施にあったから、党本部はこの意見を取り上げなかった。また札幌支庁の区費を新区役所に引き継ぐ際、区費滞納者をどう処置するかも問題で、支庁長に滞納者切り棄ての権限があるのか、滞納者を切り棄てると未納者は選挙・被選挙権を失うことになるので、「不在等の已を得ざる理由に依って滞納しつゝある者にして、為めに公民権を行ふこと能はざるに至らしむるは気の毒の極」(同前 同年9・19)との批判が生じ、後刻訴訟の火種をはらんでおり、区費引継は三十三年七月まで延期せざるを得なかった。
 あまたの課題をかかえながら、予定通り三十二年十月一日北海道区制が施行され、同日付で一連の道庁令、訓令、告示が出て例規上の整備がはかられ、新札幌区は成立をみた。その結果、北海道庁札幌支庁加藤寛六郎は現任のまま区長事務取扱を命じられた。すなわち、「明治三十二年内務省令第四十五号第一条に依り区長事務取扱を命す」と「北海道区制第百十三条に依り区長及区会の職務並区条例区規則を以て定むへき事項を施行する事を命す」の二辞令を受けるが、道庁告示としては前者が第二三五号、後者が二三六号として報知された。こうして札幌支庁から札幌区への書類上の引継手続が十月二日付でなされた。しかし、実務的な引継作業はここから始まったと言ってよく、十月一日に自治体札幌区誕生を意義づける行事がもたれた形跡はない。明治二十年代後半に盛り上がりをみせた札幌の自治論、参政権運動はここに至って静態化していたといえよう。

写真-1 区長事務引継書類(明32)

 実質的な区役所への引継は初区会後となる。十二月十五日の区会で区長候補とともに助役の選挙、及び収入役、同代理者の選任がなされ、年末までに行政事務の授受をすませるが、区長事務取扱加藤寛六郎から初代区長対馬嘉三郎への授受は翌三十三年一月二十一日付で、これの道庁への報告はさらに半月後のことだった。この間「実ニ事務ノ繁劇多忙ヲ来シタルコト固ヨリ論ヲ俟タサルナリ」(札幌区事務報告 自明治三十三年一月至同年十一月)と伝えられている。