明治二十二年(一八八九)に大改正された徴兵令が札幌に施行されたのは、それより七年後の二十九年で、歩、砲、工兵の独立隊が月寒村に置かれ、屯田兵司令部は第七師団司令部に衣替えした(市史二巻 九六九頁)。一七歳から四〇歳までの総ての男子に兵役の義務を課す常備兵役(二〇歳から現役三年、予備役四年)の制度が全道に施行されるのは三十一年で、これにともない屯田兵制は廃止され、札幌に置かれた四兵村は通常の地方制度の中に解消していった(市史二巻 八一〇頁)。
北海道への徴兵令施行により設置された第七師団であったが、三十三年から三十五年にかけて旭川へ移転する事態にたちいたり、官公署の誘致を積極的にすすめてきた札幌の人たちを驚かせた。直接の原因は広い用地の確保に障害を生じたためと伝えられる。しかし背景にある内陸開拓の促進、上川離宮構想等をあわせ考えると、軍都の名を旭川に譲り、道庁の札幌永続立地論争を有利に展開する結果となった。第七師団司令部跡を札幌区役所に転用したことは先にふれた(四六頁)。
第七師団の転出騒動が一段落したころ、日露戦争が勃発し徴兵令施行の影響を実感せざるをえなかった。これにともなう区役所業務は「時局ニ伴フ特別事務、即チ動員事務ヲ始メ召集費宿舎料ノ支払取扱ノ為メ、俄然事務ノ増加ヲ来シ、加フルニ出征者遺家族ノ生業扶助労働紹介、其他本期末ニ至リ時局ノ終結ヲ見ルニ至リタルヲ以テ、凱旋軍隊ノ来往多ク之カ歓迎送、並傷病帰還者ノ接待慰問、遺骨ノ出迎等日モ亦足ラサリキ」(札幌区事務報告 自明治三十七年十月至三十八年九月)状況だったというが、この報文を裏返しすれば区民が日露戦争で蒙った直接的影響を知ることができる。
第七師団転出後、札幌にあった軍事施設は次の通りである。まず、月寒村には歩兵第二五聯隊が置かれた。これは二十九年新設の独立歩兵大隊が三十二年十月に改称されたもので、第七師団の転出後も月寒にとどまり、三十五年にかけて各年増設し一二中隊の編成を完了した。その所在地を干城台と呼び、周辺地区の営農、交通、電気、電話、水道など民生に与えた影響も少なくない。徴兵業務を扱う札幌聯隊区司令部は札幌区をはじめ札幌、空知、室蘭、浦河の各支庁管内町村を管轄し、当初大通西八丁目に庁舎を置いたが、のち一〇丁目に移転した。軍事の警務機関である憲兵隊は大通東一丁目にあって、第七憲兵隊本部と称したが、師団の移転にともない、札幌憲兵分署、旭川憲兵隊札幌分隊と名を改めて存続した。
明治四十年、陸軍省から軍馬の飼料需給施設の計画が伝えられると、区役所はその設置に積極的に協力した。陸軍では牧草燕麦畑の広がる苗穂、雁木方面に用地を希望したので、区がその確保にあたり、換地として大通西一〇丁目以西の陸軍省所管旧練兵場用地を希望したところ、この交換が成立し、司法地区造成、火防線(大通公園)拡張、市街区画の西進をあわせてすすめることになる。「糧秣廠出張所敷地ノ交換ハ、本期ノ始ニ於テ区債募集及償還ニ関スル区条例ノ許可ヲ得、予定ノ計画ニ基キ発行債券ノ全部ヲ秋田県ノ豪農池田文太郎氏ニ引受ケシメ、札幌郡苗穂及雁来ニ於ケル陸軍省指定ノ地積ヲ買収提供シテ、旧練兵場敷地ト交換ヲ了シ」(札幌区事務報告 自明治四十一年十月至四十二年九月)、ここに四十二年九月陸軍糧秣本廠札幌派出所が開庁した(これの設置は四十一年三月である)。