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救済委員会の整理案

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 まず貯銀みずからが整理案を作成し、美濃部俊吉拓銀頭取、浜田道第三部長とともに大蔵省と交渉を開始した。その骨子は、欠損額(回収不確実)は二六、七万円であるとの前提で政府から新たに五〇万円借り入れ、これを預金払出しや旧債償還に充てるというのである(北タイ 明41・5・23)。しかし大蔵省が回答をせず、交渉が長引く間に日銀による貯銀調査で回収不確実がかなりあることが判明する(北タイ 明41・6・20)など、事態の深刻さが次第に明らかになってきた。ついに大蔵省は七月二十七日、貯銀救済案(具体的には五〇万円の貸出)を許可しない旨伝えてきた(北タイ 明41・7・28)。ここに政府による救済の道は閉ざされ、貯銀整理の舞台は、預金者の運動(貯銀預金者大会)と株主の運動へと移ったのである。
 貯銀の零細小口預金吸収機関としての性格から、預金者は数多くの庶民であった。明治四十年末で貯蓄預金預金者は札幌区二万四九五二人、小樽区五七五三人、その他一万八五一四人、計四万九二一九人であった(北海道庁統計書 明40)。札幌では、休業後まもなく預金者大会が開かれ、銀行の内容を調査し、速やかに整理を実行させるという要求を決議した(北タイ 明41・5・27)。しかし預金者による運動が重要な意味をもつのは、大蔵省の救済不許可の頃からである。七月八日助川貞二郎は北海タイムス紙上に「同行ニ対シ預金シアル諸君ト緊急御協議申上度」と、同日新善光寺にて預金者大会を開く広告を掲載した(北タイ 明41・7・8)。この預金者大会には三八九人が参加、北海道貯蓄銀行預金者同盟会を発足することを決め、助川貞二郎、村上祐高橋棟佐々木源六中山周五郎藪惣七脇田慎造長谷川興次千葉喜八郎榎本巌大谷庄助の一一人を委員に選出した(北タイ 明41・7・10)。
 一方、七月二十四日に開かれた貯銀株主総会は、閉会後も対策を協議し、株主から三人、預金者から四人、合わせて七人からなる貯銀救済委員会を設けることを決定した。委員は、株主側から永田巌南部源蔵、助川貞二郎、預金者側から村田不二三、阿部腰次郎、これに法人・団体代表として札幌商業会議所から対馬嘉三郎石井峰太郎の七人が選出された(北タイ 明41・7・27、28)。預金者側を二人に減らし「中立」と見なされた札幌商業会議所の二人が加わったのである。救済委員会(別名調査委員会)は、八月十四日に整理案の第一次案をまとめた。まず欠損額は、貯銀側の見通しを大幅に上回り、七四万五〇〇〇円とされた。この欠損額の補充は預金の切捨てと資本金の取り崩し(減資)によってまかなわれるという案である。具体的には、貯蓄預金は一〇円未満のものは五パーセント引き、一〇円以上のものは二〇パーセント引き、普通預金は三五パーセント引きというもので、切捨ての残余の部分も一部は即時払い出しに応じるものの、一部は年賦償還の方法により払い戻されることとされていた。これによって欠損額七四万余円は四三万九〇〇〇円を預金切捨てにより、二〇万円余を減資により埋め合わされることになる(北タイ 明41・8・16)。零細な貯蓄預金への配慮があるとはいうものの、預金者にツケを回す構想であった。
 この第一次案は株主協議会で審議され、九月八日に次のように修正された。①貯蓄預金は一〇円未満のものは全額払い戻し、一〇円以上のものは一五パーセントを据え置き、二〇パーセントを即時払い戻し、六五パーセントを五カ年の年賦償還とする、②普通預金は二〇パーセント据え置き、八〇パーセントは五カ年間の年賦償還とする、③欠損金は五四万円余とみなし、回収された分は預金据え置きの払い戻しに当てる、④株主は据置預金の払い戻し終了まで無配当とする、というものであった(北タイ 明41・9・10)。預金切捨も株金(資本金)切捨も行わず、それらを「無期限据置」の形で欠損金が回収され次第徐々に埋め合わせるという構想である。この案は、九月十日の株主協議会で普通預金の据置を三〇パーセントに拡大し、残額を六カ年年賦償還と修正して可決された。これを第二次案と呼ぶことにする。またこの株主協議会では預金者との交渉委員として永田巌朝山益雄、助川貞二郎、南部源蔵山本久右衛門を選出した(北タイ 明41・9・11)。
 札幌区においては、九月十六日に貯蓄預金五〇円以上の預金者、十八日に同一〇円以上五〇円未満の預金者、十九日に普通預金者の説明会を開催し、十六日は約六〇〇人が参加した(北タイ 明41・9・17、20、21)。預金者への説明会では、一部に紛糾することはあったものの、整理案そのものについて異論は出ず、大方の合意が得られる形勢にあった。ところが、まとまりつつあった整理案に疑義を表明したのは道庁第三部の浜田部長であった。