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廃娼運動

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 明治二十年代の札幌の廃娼運動については、市史第二巻で述べたとおり、北海道学友会、北海禁酒会札幌基督教会、仏教青年会などの諸団体をはじめ、代言人(弁護士)、新聞記者といった人びとを主な担い手とする政談演説会においても討論のテーマや問題として札幌の人びとの口にのぼった。
 三十三年二月の函館の娼妓坂井フタが廃業訴訟で勝訴すると、山室軍平率いる救世軍が同年八月娼妓自由廃業を唱えて運動を起こし、東京新吉原に乗り込み流血の惨事を引き起こした。
 道内では翌三十四年、アメリカ人宣教師ピアソン夫人によって日本基督教婦人矯風会旭川支部が結成され、函館、小樽、旭川、北見で活発な廃娼運動を展開していた。当時の新聞にも、「宣教師ピアソン夫妻が昨年冬季より拘留に処せられたる淫売婦十四名を救い出しこれに相当の救養医薬を与うのみならず少からざる資金を投じて函館救済会に収容した」(道毎日 明34・7・18)とあるのをみると、三十三年中から活動を開始していたのであろう。
 札幌では三十四年五月十三日、日本廃娼会(会長島田三郎、賛同者大隈重信片岡健吉)による「廃娼演説会」が北海禁酒俱楽部で開催された。当日は、日本廃娼会幹事の松田順平が演壇に立ち、「公娼論者の迷妄を破す」の演説が行われ、かつ会員募集が行われた(道毎日 明34・5・12)が、どのくらい会員が集まったか定かではない。
 三十三年九月に薄野遊廓でも娼妓自由廃業第一号が出て以来、前述したごとく廃業するものがあとをたたなかった。そのような娼妓に救済の手を差し伸べたのが旭川のピアソン夫人である。三十四年十二月七日、ピアソン夫人は新聞を通して次のように訴えた。
  娼妓を廃業せんとする者に告ぐ
明治三十三年十月二日の内務省令によれば娼妓は何時にても自由に廃業する事が出来ます。又誰でもこれを妨ぐる者は罰せられます。又同年九月一日の内務省令と民法第九十条によれば娼妓の自由は其借金によりて妨げられませぬ。
そこで旭川、滝川の娼妓で廃業したいならば旭川基督教婦人矯風会の代表者旭川五条通八丁目左七号ピヤソン方にて世話致しますから遠慮なくおいでなさい。
(北タイ 明34・12・7)

 このピアソン夫人の救済は、自由廃業を切望する娼妓たちの光明となった。自由廃業した娼妓を収容する施設、すなわち更生施設が必要であった。しかし、当時の札幌にはそれに相当する施設はまだなかった。このため、自由廃業した娼妓は行き場を失い、元の遊廓に戻るのだった。この代わりを果たしたのが、のちの日本基督教婦人矯風会札幌支部(大正二年設立)の人びとのボランティア活動である。同会会頭矢島揖子来札を機に札幌支部は設立され、はじめて全国組織の仲間入りを果たした。支部長は佐々辰子である(北タイ 大2・8・19)。
 ところで、これより先「救世軍」の名は札幌まで轟き、ちょうど娼妓自由廃業が盛んに行われていた三十五年九月十五日、札幌で「救世軍大演説会」を開催、娼妓の救済も主張した(北タイ 明35・9・14)。弁士は救世軍士官の高城牛五郎、会場である日本基督札幌会堂には聴衆四、五百人がつめかけた(ときのこえ 一六三号)。各営業主たちは、目を皿にして赤い帽子の飴売りのような姿をした者を見かけたら容赦なく殴りつけろと警戒するのだった(北タイ 明35・9・18)。それだけ恐れられた山室軍平率いる救世軍は、大正八年(一九一九)八月二十六日札幌区時計台で社会事業演説を行い、「山室氏の人格と信仰に私淑せる聴衆満場に溢れて立錐の余地」がないありさまであり(北タイ 大8・8・28)、救世軍山室軍平によれば六〇〇人入るべきところ、一〇〇〇人の聴衆であふれ、二階が抜けんばかりであったという(ときのこえ 五七一号)。当時は、薄野遊廓が豊平川を越えた対岸の白石に移転が決まりちょうど工事の真最中で、札幌は「廃娼論」よりは「存娼論」がまだ健在であった時期である。

写真-7 救世軍大演説会の広告(北タイ 明35.9.14)