この時期、教会の幼稚園は、聖公会が明治四十二、三年頃、北一条西四丁目に開設したが、大正八年頃には廃止されていたとみられる。同年六月、組合教会が教会学校(日曜学校)附属幼稚科の保育を開始し、翌九年四月附属幼稚園(のち北光幼稚園)として園児三〇余人を集めて開園式を挙げた。
次に、この時期の日曜学校についていえば、大正六年にプロテスタントの日本日曜学校協会札幌部会主催の、「日曜学校生徒大会」が開かれた。六月十日の日曜日午後、農科大学の校庭に集まったのは、六教会(独立・北辰・メソヂスト・聖公会・組合・ルーテル)と宣教師が運営している日曜学校生徒合わせて一二〇〇人、教師その他二〇〇人であった。この大会は、神戸で開かれた全国大会で優勝旗が札幌部会に授与されたことを祝って行われたものらしく、大会の最後には小旗を持った生徒たちが、音楽隊を先頭に駅前通を大通まで行進(パレード)した。
写真-10 日曜学校生徒大会(大正6年)
当時の区内の日曜学校数は、正確にはわからないが、大正九年度の組合教会では三校で四五七人の生徒がおり、その頃最も日曜学校に力を注いだメソヂスト教会では、本校・分校を合わせて一四校、生徒数一二九六人がいた。全国的に日曜学校が盛んになるのは、大正九年十月に東京で開催された第八回世界日曜学校大会以降といわれるが、翌十年の「札幌日曜学校部会統計表」では、六教会の在籍生徒数一一〇九人、毎週の出席者数平均七四三人となっている(北光 第八七号)。この統計には部会に所属していない一部の日曜学校生徒数を別掲しているので、プロテスタント系の日曜学校生徒数はこれをはるかに上回っていたはずであり、カトリックとハリストス正教会を加えると相当な数にのぼったものと推測される。
教会における日曜学校の位置づけは、伝道の拠点形成とクリスチャン家庭の子供たちの信仰継承という二つの役割を担うものとされていた。このうちプロテスタントではどちらかというと前者に重点が置かれ、やがて講義所開設に至ることも少なくなかった。カトリックの場合は後者に重点が置かれ、信徒の子弟を教育して信仰を継承させるところに主眼があった。
ただ、教会の意図がいずれにあっても、子供たちにとっては異国の文化に触れ、数少ない娯楽の一機会とも受け止められていた。特に特別の行事には多数の参加者があり、一般新聞も各教会のクリスマス祝会やその他の行事を盛んに報道した。日曜学校の生徒が青年期を教会で過ごし、受洗してその教会員となるのはごく一部に過ぎなかった。しかしながら、市民の中には幼い頃、一度は教会の門をくぐったという経験を持つ人びとが増え、これらが教会外の広汎な支持層を形成した。