札幌別院には三条支院と合わせて昭和九年で一五八九戸の信徒がおり、豊白(信徒数三一二戸)、北三条(三七六戸)、北九条(四二八戸)、円山(二二五戸)、山鼻(一四八戸)の五附属説教場の信徒を総計すると三〇八八戸に及び、市内でも随一の規模をもっていた。十三年一月頃には札幌大乗顕真会も創設され、毎日曜日に聖典講義や講演会が開かれている。
大谷派の事業としては、藻岩山山麓に北海御廟を建設している。北海御廟は本願寺街道の開削などで北海道開教に縁が深かった現如(大谷光瑩)の分骨を納めたものであるが、現如は生前に本道への分骨を遺言していたこともあって、北海道教区では大正七年五月十二日に開道五〇年を記念して廟塔を札幌に建設することを決議していた(東本願寺北海道開教史 昭25)。そして十年に藻岩村の藻岩山山麓に敷地を購入したが、十二年二月八日に現如が死去したことにより同年八月に仮堂を建設し、十四年以来公園墓地としての整備を進めていたが、昭和九年十月四日に桃山式三重塔が落成したので御廟納骨塔落慶及び現如上人御遺骨奉安式が、法主の光暢を迎えて執行となった。ここには現如の分骨をはじめ、本道拓殖に功労のあった屯田兵二〇〇人、警察官四七人、刑務官一六五人、鉄道従業員八〇〇人、受刑者五〇〇〇人の法名記も納められて合祀されていた(北タイ 昭9・10・5)。
本願寺派の西本願寺別院(南4西5)にも青年会、婦人会、日曜学校が設けられて活発な活動がみられたが、この活動の場として図書館も併設した会館が建設され、大正五年七月十六日に開館式を行っている。十一年十一月十八日には、「本願寺派北海道教区教務所及同派所属寺院説教所ノ行フ興学布教及社会事業ノ為メニ要スル経費ヲ支弁ス」る真宗本願寺派北海道教区教学財団も設立されている(法人一覧)。昭和四年に大谷光明を迎えて七月五、六日に北海道開教一〇〇年記念慶讃会、開教功労者追弔大法要、七日には北海道仏教婦人会聯合大会を行い、期間中には今井呉服店で西本願寺開教史料展覧会が開催されていた。
真宗では昭和十年に一〇派が共同で北海道親鸞上人讃仰会を組織し(会長に道庁長官佐上信一、副会長に札幌市長橋本正治が就任)、七月十七日より札幌商工会議所主催の北海道工業振興共進会の会場に親鸞上人讃仰館を特設した。ここを会場にして七月二十八日に真宗信徒大会を開催し、八月九日には親鸞上人讃仰大会を開催していた。
教育・社会事業では、大谷派では明治三十九年に北海女学校を設置していたが、本願寺派でも大正六年九月にいたり、札幌成美女学校を南四条西五丁目に開校する。西本願寺別院には明治三十一年に開かれた「家庭女子養成」を目的とする本願寺附属日曜女学校があり、刺繡、活花、裁縫、編物などを教授していた。毎日曜日の午前九時から午後二時まで授業が行われ(学期は三カ年)、大正四年の生徒数は一三〇人であった(北タイ 大4・1・11)。これをもとに大正六年九月に和洋裁を専門とする札幌成美女学校が創設された(昭3・3成徳女学校と改称)。
福祉事業では、東本願寺別院が大正十四年四月十五日に山鼻幼稚園を開設し(昭17・11札幌大谷幼稚園と改称)、堯祐寺でも昭和四年十一月一日に大通西一八丁目に幼稚園を開園していた。
写真-5 東本願寺別院(上)と西本願寺別院
大谷派の北海道寺務出張所では、出獄者の保護と授産を目的とした免囚保護事業を企図し、明治四十二年十二月二十五日に別院内に北海道免囚保護事業場設立事務所を置いた。そして四十三年六月に北海道授産場を設けて製造部では蠟燭の製造、農業部では厚別での開墾事業に取り組む。同場は大正二年六月八日に別院内より苗穂へ移転し(東本願寺北海道開教史)、九年三月に法人組織となる。十三年八月に少年保護部、昭和四年に労働部を設置し、優良私設社会事業団体として顕著な実績をあげていく。
なお社会事業では、新善光寺にて大正十四年十月五日に札幌養老院を伏見に開設している。昭和二年に財団法人となり、六年に院舎を改築し九年六月二十一日に救護法による救護施設の認可を得る。当時、本道で私設の施設で指定を受けたのは函館の慈恵院と同院のみであった。開設以来一六一人を収容し九年六月現在で六一人が救護を受けていた(北タイ 昭9・6・24)。