こうした中で、大正十一年二月十七日「市制中改正法律案」の審議が始まった。政府提出の案は、市制一七七条を前議会と同文で(四六頁参照)、附則を「本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム。北海道ノ区ヲ廃シテ市ヲ置カムトスルトキハ第三条ノ例ニ依ル」とするもので、第一読会で床次内務大臣は、次のように説明した。
是亦昨年市制中改正法律案中ニ本案ト同様ノ規定ヲ置キマシタノデアリマスルガ、北海道会法ガ貴族院ニ於テ審議未了ト相成リマス虞ガアル結果ヨリ致シマシテ、此規定ダケハ同院ニ於テ削除セラレマシタ為ニ成立タナカッタノデゴザイマスガ、案ノ内容ヲ申上ゲマスレバ極テ簡単デ、北海道ニ於ケル区ニ内地ニ於ケルト同様ナル市制ヲ施行致シタイト云フノデゴザイマス。是亦今日彼地ニ於ケル状況カラ申シマスレバ、極テ適当ナル事ト考ヘマスノデ御協賛ヲ願ヒマス(拍手起ル)。
(帝国議会衆議院議事速記録 第四五回)
法案は北海道会法中改正法律案外二件委員会(委員長東武)に付託され、小池仁郎、松実喜代太、友田文次郎、長谷場敦議員から質問意見が出されたが、多くは北海道選出議員で、市制施行に反対する者はいない。その中で市の条件とは何かが問題となり、人口(三万人以上)、面積、地勢、農村集落の統一、住民の職業(商工業が大部分であること)、密集生活、衛生警察の施設(計画を推進する資力)、財政について意見があり、現行の六区をすべて市にすること、夕張町(人口五万以上)の扱い、市制施行は五月頃の見通し、区から市へ移行する間の市長代理者、道庁の事務、北海道区制を廃止しないで、北海道には市も区も併置する方針が政府委員から示された。また、市制を施行する以上は府県同様に町村制を施行すべきだとする強い要望を受けて、塚本地方局長は次のように答えている。
北海道ニ於ケル区ニ対シテ市制ヲ施行スルナラバ、殆ド是ト区域ヲ同ジクシタ一級町村ニ対シテ、内地ノ町村制ヲ何故ニ布カナイカト云フ御尋ト承リマシタガ、洵ニ御尤ナヤウニ聞エル。区ガ市ニナレバ、而シテ其市ガ内地ノ市制ト同ジ制度ノ下ニ立ツナラバ町村ガ内地ノ町村ノ制度ト同ジ制度ノ下ニ立ッテ宣イ訳デアリマスガ、併ナガラ区ハ申ス迄モナク、纏ッテ内地ノ市ノ如ク区民ガ密集生活ヲシテ自治ノ行政ヲヤッテ居ル。ソレデ差支ノ無イモノニ対シテ、内地ノ市ト異ニシタ取扱ヲスルコトハ、実ハ今日ノ所デハ謂レガナイ。ソレ故ニ市制ヲ布クノデアリマスガ、町村ニ至リテハ、区ノ一区域ニ纏ッテ居ルモノト大ニ異ルコトハ申ス迄モナイノデ、現在一級町村デアッテモ、其広袤頗ル大デアッテ、沢山ノ部落ニ分レテ居ル。是ガ渾然タル一区トナリテ、各部落間ノ融和ガ十分行レテ居ラヌノガ中々アル
(同前 委員会議録)
委員会で原案通り可決された法案は、三月八日東委員長によって本会議に報告され、「委員長ノ報告ノ通リ可決」(同前 第四五回)し、貴族院へ送付された。
これを受けて、三月十一日貴族院本会議で小橋内務次官が法案説明を行い、質問はなく、ただちに特別委員会(委員長大久保利武)に付託された。そこでは人口三万の釧路を市にし、五万の夕張が市とならないことへの疑問が出されたが、「区ヲ変ジテ市トナス場合ヲ規定」(帝国議会貴族院委員会議事速記録 第四五回)した法案であるから、区になっていない夕張は含まれないと受け取れる答弁があり、なお「総テノ状態ガ十分市ニシテ宜イ力ノアル、若シ町ガアッタナラバ、ソレハ矢張リ町ヲ変ジテ市トナスト云フ手続ヲスル途ヲ、尚ホ勅令ニ入レル積リデアリマス」(同前)と発言している。この時点で、なお政府は北海道区制を活かし、区と市の併存を予定していたようである。
前回の委員会であれほど混乱した北海道への市制施行議題は、今期まことにあっけないほど質疑が少なく、三月二十三日わずか十分ほどで審議は終わり、原案通り「可決スヘキモノ」と本会議に報告された。そこで大久保委員長は、札幌区などに市制を施行することと法案の関係をかなり詳しく説明しているが、質疑はまったくなく、三月二十五日貴族院において、市制中改正法律案は可決されたのである。
道会において、初めて市制施行を建議しようとしてから一〇年、憲政会が法案を帝国議会に提出してからでも三年を費し、ここにようやく札幌市が誕生することになった。なお、北海道区制は翌十二年一月二十日に廃止となり(官報 大12・1・22)、区と市が併存する事態は生じなかった。とはいえ、道内一級町村に府県同様の町村制が準用されるのは昭和二年からで、これら特別自治制が廃止されるのは、国家統制の強化方針による十八年の地方制度改正においてである。さらに府県制も施行されないまま、北海道庁は特殊官庁として存在し続ける。その中で道都の位置付けを確固にしようとする札幌市の出発は多難であった。