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火災予防組合

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 火災予防組合(以下火防組合と略)は、地域の住民に火災予防思想の普及をはかるのが目的で明治四十三年に設立され、衛生組合と並んで地域住民を火災から守るのになくてはならない住民組織であった。火防組合は、大正十一年の市制施行時には四八組合が、また昭和十五年、町内会部落会設置規則の公布による火防組合の廃止時には七五組合が活動していた(札幌市統計一班)。
 火防組合は、地域の火防組合をまとめあげた札幌市火災予防組合聯合会を持ち、大正十二年五月には札幌警察署札幌市聯合衛生組合と共催で火防衛生思想等のため宣伝にポスター展覧会を中島遊園地で開催した(北タイ 大12・5・21)。火防組合聯合会では、しばしば火防宣伝のため大道演説を行って道行く人びとに訴えたり、昭和二年五月六日には北海タイムス社機から火防宣伝のビラ三万枚を撒いて(北タイ 昭2・5・7)火防宣伝の徹底をはかった。翌三年から五月十日を全道「火防デー」と決め、同年十一月には、火防展覧会を中島公園で開催、一般から募集した火防宣伝ポスター数百点や展示模型を使って火防宣伝を呼びかけた(北タイ 昭3・11・5)。
 火防組合の役員は、衛生組合のそれと同様に地域の名望家の活躍の場であり、昭和五年三月の役員改選においては激しい火花を散らし、女性の投票も許されていたので、女性票を集めるのに躍起になっている場面もみられた(北タイ 昭5・3・27)。昭和六年の全道「火防デー」では、「壮烈な模擬火災演習」が行われ、火災専用電話も使用された(樽新 昭6・5・11)。
 昭和十二年の日中戦争勃発以降、十三年には札幌市をはじめ藻岩村等隣接町村にまで家庭防火群が組織された。これは、各火防組合区域内を数班に分けたもので、防空演習に備えられた(北タイ 昭13・7・28)。火防組合は次第に防空組織へと色合いを変えていった。十三年十一月二十五日から三日間にわたり家庭防火群を総動員した「大空の護り」の防空訓練を実施した(北タイ 昭13・11・28)。これは、十二年十一月の防空演習(後述)に次ぐ大規模なものであった。やがて、十五年十一月二十日、前述の町内会部落会設置規則の公布により、火防組合は三一年の歴史に幕を閉じ(北タイ 昭15・11・22夕)、各聯合公区の警防部へ引き継がれた。
 なお、各火防組合を母体に火防婦人会が組織されていた。昭和五年十一月二十五日の火防婦人会聯合会定期総会では、会員八〇〇人が参集、有益な講演のほか火防映画『努力は輝く』が上映された(北タイ 昭5・11・26)。道内の場合、火防衛生婦人会の名称のとおり火防衛生両者を兼任していたが、札幌市の場合、形の上では別組織であった。