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札幌問屋の盛衰

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 一般に戦前期札幌の商業は小樽の商圏の下にあり、振わないといわれている。確かに、第一節でみたように、貨物集散価額、手形交換高などでは小樽に大きく差をつけられていた。しかし、札幌の成長によって小樽との差が縮小したのもこの時代の特徴であった。
 表20に札幌における卸商・問屋の営業税納税額をまとめた。資料の記載からは、卸・小売を厳密に区別することは難しい。そこで、昭和八年の商工人名録の広告欄に着目し、問屋または卸商として自己の業務を宣伝しているものを拾い出し、これに卸売商として著名な者を加えて作成した。まず、この期間の営業(収益)税額は、大正期に高く、昭和に入り減る者と、逆に昭和に入り尻上がりに増える者がみられる。前者のタイプは、雑穀の池田商店、白米荒物雑貨の古谷辰四郎、果実蔬菜の一柳商会などである。
表-20 主要卸売商・問屋の営業(収益)税納税額 (単位;円)
取扱商品商店名大正1214昭和3812
雑穀池田商店65395
米穀白井喜蔵1769868100
白米荒物雑貨古谷辰四郎1,8223,1771,7291,2941,863
砂糖麦粉弓削栄三郎147201196238428
砂糖麦粉乾物前田一吾80118147232
玉葱馬鈴薯村川嘉一26212835212
果実蔬菜石田寅治37541068760
果実蔬菜一柳商会18741417622
漬物一柳いよ829998105
菓子大黒屋坂井幸蔵150155162126126
海産物富樫長吉372527252243451
海産物高橋松吉3884113504
海産物佐藤金治5960705653
木材新田啓二郎1121539282131
荒物雑貨高桑市蔵156162210204183
硝子岡田幸三37575635
金物清水教昭364279139
石鹸羽鳥千賀恵2441424840
皮革馬具三ツ星商会山本好猪123184224256321
紙類文房具藤井商店3438211,7041,4521,379
洋品メリヤス小林国治113222210204698
製綿卸駒野七郎平5374119217191
麻製品勝田留吉2737502727
1.取扱商品は,原則として昭和8年時点の記述にしたがった。
2.佐藤金治は昭和12年に金作。高桑市蔵は昭和12年には達雄。
3.札幌商業(工)会議所『札幌商工人名録』(大13,15,昭3,8,12)より作成。

 合名会社池田商店は、池田新三郎が北八条東一丁目で経営しており、石狩街道最大の商店として、一時は燕麦相場は池田商店で決まるとまでいわれていた(東区今昔 三 東区拓殖史)。しかし、合名会社池田商店は大正十五年にはなくなり、新三郎は、札幌拓殖倉庫株式会社取締役、北海道議として活動する(札幌拓殖倉庫株式会社五十年小史)。
 古谷辰四郎は、製造業者であるとともに問屋でもあった。大阪の乾物卸商永井商店に奉公していた辰四郎は、日清戦争中に物資売り込みをねらって中国へ渡ったが、講和成立で損害を被り、これを機会に渡道した。辰四郎は、後の冨貴堂店主中村信以とともに、若いころ藤井太三郎宅に出入りしていたという。札幌では明治三十二年乾物商を開業、以後、取扱品目を漸次増やし、工業部を設け、明治四十一年には白玉を、大正元年からは砂糖を、大正七年から菓子を製造した。十四年から「フルヤのキャラメル」が売り出された。商業部は十二年一月に株式会社(資本金三〇万円)とし、大日本麦酒株式会社の特約店としても重要な位置にあった。辰四郎本人は昭和五年に死去するが、長男が二代目辰四郎となった(故古谷辰四郎尋思録)。一柳商会は、一柳仲次郎が玉葱、リンゴ輸出で成功したが、この時期には仲次郎は政治に専念し、業務は縮小したようである。
 表20のなかでしだいに納税額が増えた、すなわち収益額が増えた者としては、海産物の高橋松吉、紙類文房具の藤井商店、洋品メリヤスの小林国治、製綿卸の駒野七郎平などがあげられるだろう。
 高橋松吉は、明治四十一年秋田県から渡道、富樫長吉商店で丁稚奉公し、小樽方面への買い出し、魚屋への「外交」に腕をみがき、大正十三年に〓高橋松吉商店として独立した。松吉は水産冷凍品に注目し、函館の日魯漁業株式会社の北部特約店となり、冷凍品、新巻を買い付ける一方、大阪の日本水産株式会社の北海道特約店として鯛、エビなどの高級魚を仕入れ、冷蔵施設も完備させた。昭和十一年には、高橋商店が中心となり札幌冷蔵株式会社を設立している(神山茂 高橋松吉伝)。
 藤井太三郎は、明治二十六年渡道し、将来需要を見越して価格変動の大きい生鮮品ではなく、紙屋を開業した。ただし、創業のころは養子専蔵と中村信以が石油の行商を行った(小北寅之助 藤井太三郎藤井専蔵両兄小伝)。大正十一年五月に株式会社藤井商店としたが、重役、株主ともに藤井家と古谷、中村など周辺の人びとであった。
 業績は表21のとおりである。まず、売買益金(売上金から仕入金を引いたものと思われる)は、昭和三年まで、大正十三年を例外として毎年一割以上の伸びをみせている。不況期にもかかわらず、事業規模を拡大しながら純益金も増加傾向にあった。大正十二年には関東大震災により、「弊店取扱商品ノウチ和紙ヲ除ク大半ハ東京取引ノタメ」商品の払底を余儀なくされたが、小間紙加工業を開始し、製紙工場機械を増設し北海道、東北の需要に応じているという(株式会社藤井商店 大正十二年第二回営業決算報告書)。その後も藤井商店は、「当会社取扱品ノ主要品ハ他ノ商品ト異リテ需要ノ減退スル事ナシ」(大正十五年第五回営業決算報告書)、「当店取扱商品ノ需要ハ年々増加ヲ見ルモノノ如ク」(昭和三年第七回営業決算報告書)というように、商況はきわめて好調だった。昭和恐慌以後は、売買益金、純益金の伸びは鈍化するが、戦間期を通して順調な発展を遂げたとみてよいだろう。
表-21 藤井商店の経営 (単位;円)
商品現在高売掛代金売買益金掛買代金純益金
大1155,85027,63366,96345,54315,854
 1258,117173,35978,49038,26729,196
 1399,736283,74485,80593,97118,012
 14112,523329,42995,58383,26423,886
 15116,496385,385109,81092,34024,546
昭 2125,419514,764132,08065,97347,322
  3143,726567,255151,37981,93042,510
  4125,613553,975148,371112,22549,789
  588,000514,122135,31863,21237,844
  695,740558,870140,36080,54138,987
  7123,113524,653136,21297,44642,630
  8134,614440,701128,69675,50046,264
  9134,054427,665123,01091,15541,317
 10143,965479,936113,179129,12337,501
 11186,177499,679117,260167,25834,840
株式会社藤井商店『営業決算報告書』(各期)より作成。

 札幌で製糸業を営んでいた小林国治は、第一次世界大戦後に絹糸生産をやめ、以後、繊維問屋として成長を遂げる。絹・綿・毛糸にメリヤス、タオル製品をてがけ、販路・取引先も増えた。昭和四年創業四〇年記念謝恩宴会招待者名簿をみると、札幌四六人、江別三人、旭川一〇人、夕張七人、苫小牧六人、室蘭八人、野付牛(北見)七人、帯広七人、釧路八人などと全道に広がっていた。昭和恐慌後には年商八〇万円を超え、東京・名古屋・大阪各所に仕入先をもつとともに、得意先を共栄会に組織した。そして、経営形態も十二年四月には株式会社小林商店となっている。毛糸問屋として定評があり、北海道の気候に適した洋服を縫製したという(小林商事株式会社 風雪八十五年の歩み)。
 駒野製綿は、明治四十年富山県高岡から移住した七郎平がはじめたもので、木綿わたのふとん、丹前などを扱い、販路は道内はもとより青森、秋田、樺太にも及んだという(北海道繊維小売新聞社 繊維 北海道卸業界のあゆみ)。小林国治とともに札幌では数少ない繊維問屋であった。
 このほか広告によれば、弓削栄三郎はストーブ、石炭販売代理店であり、前田一吾は食料品を手広く扱うとともにキリンビール、ヤマサ醤油代理店であった。村川嘉一は玉葱、馬鈴薯の輸出商であり、清水教昭はストーブ、靴スベリ止などを扱っていた。馬具商の三ツ星商会は天幕、製綱、帆布、毛皮貿易などに業務を広げていた(札幌商工人名録)。