ビューア該当ページ

札幌の朝鮮人

637 ~ 638 / 1147ページ
 札幌の朝鮮人は、北大の学生を除けば、行商人、料理店、土工夫、酌婦など貧しい人が多かった。昭和に入ると、豊平の大門通を中心に朝鮮料理屋が増え、十年頃には市内で一〇〇軒を越えた。
 札幌の土工現場で朝鮮人が目立つようになってきたのは関東大震災以降で、昭和三年には、平岸の道路工事に四二人の朝鮮人土工夫が就労していた(朝鮮人統計表)。その後、市内の工事現場で働く朝鮮人土工夫は、次第に増加してきた。十四年十月から、札幌にも朝鮮人労働者が強制連行されてきた。
 最初は手稲鉱山豊羽鉱山への連行であったが、丘珠の飛行場建設が開始されると、工事場に多数の朝鮮人が連行されてきた。十八年晩秋には、千島から送還されてきた菅原組朝鮮人土工夫が飛行場建設に加わり、札幌近辺の朝鮮人数はまたたくまに増大した。
 札幌警察署管内の朝鮮人人口は、昭和十五年五月末現在一五六三人であった(協和事業要覧)ものが、十八年五月末現在では三一二三人に増大している(道会参事会資料)。連行開始以前の昭和十二年十二月現在の札幌市内朝鮮人数は、四七七人にすぎなかった(北タイ 昭14・10・7)。
 十五年戦争末期に飛行場工事に就労した菅原組藤原組の土工部屋では、発疹チフスが蔓延し、朝鮮人労働者を苦しめた(表3)。しかしそれよりも、食料不足、衣服の不足が連行されてきた人々を苦しめた。正木清は昭和十四年十二月十二日、道会で朝鮮人土工夫についての質問を行い、土建業者と警察の癒着が朝鮮人労働者を苦しめていると指摘した(道会議事速記録)。
表-3 札幌市及び近郊発疹チフス患者数(昭和18年12月30日現在)
発生地患者数死亡数全治患者現在数
札幌市内21人3人10人8人
札幌村烈々布藤原組776314
札幌村雁来菅原組(北方帰還者)72171
1.北方帰還者とは北千島の軍施設工事から帰還した人々。
2.『参事会関係書類』(A7-1 1647)より作成。

 皇民化政策を進めるため、自主的な組織であった札幌保全自治組合(昭13・4・10結成)は解散させられ、十四年十一月二十三日札幌協和会が組織され、翌年から創氏改名が強行されたが、逆に差別が強まった。とくに子どもの世界でそうであった。教育界では協和教育が論議された。朝鮮人料理屋の女性は炭坑への移動を強制された。昭和十九年になって、北海道にも中国民衆が連行されてきたが、札幌には就労しなかった。ただ、小樽に連行された中国人が、札樽間の除雪に駆り出されたことがあった。