合法無産政党である労働農民党の札幌支部は、大正十五年九月六日に組織された。推進力となったのは札幌合同労働組合であったが、最高幹部は憲政会を脱会した高野精一であった。結成時の役員は、支部長高野精一、常任委員田中好雄、木田茂晴、沼山松蔵、佐藤栄太郎、川村武五郎、会計大門隆三、書記萩原義雄であった。弁護士と鉄道労働者中心の組織であったことがわかる。
しかし普通選挙が迫るにつれ、後述する日本共産党の指導、鉄道従業員組合支部の解消により、札幌合同労働組合が支部の中心となった。昭和二年十一月十三日の大会で改選された支部役員は、次のように左派によってしめられた(北海道無産政党一覧)。執行委員長 沼山松蔵、執行委員 寺島親蔵、田口右源太、増田博愛、洪仁杓、原田孝一郎、高橋幸広、木田茂晴。新執行部は札幌電気軌道の争議を指導し、市役所職員の土木工事に関する不正を糾弾し続けた。
札幌における最初の普通選挙は、大正十五年十月の市会議員選挙であったが、鉄道従業員組合の活動、北海道製綱争議の勝利の余波によって、田中好雄を高点で当選させることができた。昭和三年二月、最初の普通選挙による衆議院議員選挙が行われたが、北海道第一区では、労働農民党以外では無産政党候補の立候補がなく、唯一の無産政党候補として山本懸蔵が立候補した。山本は労働農民党員と称していたが、実際は日本共産党員であった。「言論集会結社の自由」「兵役一年短縮」「婦人の人身売買禁止」などを主張する山本の選挙活動は、官憲の妨害があったものの、各種の労働者から熱い支援を受けた。だが札幌市での得票は九九四票にとどまり、市内五位であったが当選できなかった。近郊では一一九票を得たにすぎなかった(表4)。