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廃娼運動

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 日本キリスト教婦人矯風会本部は、大正四年(一九一五)の第二三回大会で「今後六年間に、公娼制度の廃止を期する事」を決議し、公娼全廃運動に取り組むこととなる(日本キリスト教婦人矯風会百年史)。
 道内でも十二年、野付牛町(現北見市)遊廓設置請願書が道庁に提出されると、野付牛婦人矯風会会員たちが遊廓設置反対の署名活動を行い、道庁当局へ認可請願書棄却願を提出し(北タイ 大12・5・14)、これにより同町には遊廓は設置されなかった。また、同年九月の関東大震災によって焼失した東京吉原遊廓再建反対運動にも、前述の婦人矯風会本部が急先鋒となり、全国各支部に檄を飛ばし、各地の女性団体が提携して運動を展開した。この時、道内の婦人矯風会を中心とする女性団体は、再建反対の陳情書の署名活動を行って本部へ提出したばかりでなく、同年十二月東京で開催された公娼制度廃止の第一回大会には、岩見沢、小樽、室蘭からも三人の女性が参加した(北タイ 大12・12・26)。
 十五年五月、内務省当局の働きかけによる府県警察部長会議で、公娼制度の待遇改善が論議され(北タイ 大15・5・10)、同年十一月の貸座敷取締規則(自廃の自由、外出の自由、廻し制度の廃止等)の実施へといたった(北タイ 大15・8・4)。前述の札幌白石遊廓の娼妓の待遇改善要求運動もこの動きと合致しているといえよう。
 また、同年六月七日には廓清会婦人矯風会聯合(のち、廓清会婦人矯風会廃娼聯盟と改称)が設立され、廃娼運動の推進役となった。昭和二年二月十二日、同会では公娼制度廃止請願書三万一五八七枚を帝国議会に提出、これが採択され、同年三月一日衆議院議員(立憲政友会)星島二郎は、公娼制度制限並廃止法律案を議会に提出した(日本婦人問題資料集成 第10巻-以下集成10と略。請願書は三月中旬で四万数千人分にのぼったという-北タイ 昭2・3・15)。同会では同年六月十日、廃娼聯合第一年会を東京で開催、全国から四〇〇人が集まった(集成10)。そして、三年五月の福井県廃娼同盟会を皮切りに、全国に廃娼運動の輪が広がった。北海道で廃娼聯盟設置の機運が高まったのは四年七月から八月にかけてである。婦人矯風会札幌支部長佐々辰子小野恒および酪農家で札幌禁酒会会長の宇都宮仙太郎等が、札幌の基督教青年ローリー館に集まり、北海道廃娼聯盟設置等を決定した(廓清19-9)。同年八月段階で公娼制度廃止の請願・建議運動に出たのは、北海道を含め一五の道府県におよんだ(廓清19-8)。
 政府側でも、民間レベルの廃娼運動を受けて、公娼制度廃止案が昭和四年(安部磯雄ら)、五年(三宅磐ら)と続けて議会に提出されたが、前者は審議未了、後者は上程にはいたらなかった(集成10)。全国廃娼大会にも北海道から毎年代表を送り、六年の第六回には平山匡輝が(廓清21-7)、七年の第七回には婦人矯風会札幌支部長佐々辰子が出席した(廓清22-8)。そして八年、廓清会北海道支部(会長高杉榮次郎)が創立された。
 そのような全国的な廃娼運動の盛り上がりの最中の十年一月二十四日、婦人矯風会札幌支部では札幌グランドホテルを会場に、本部理事の久布白落実を迎えて廃娼運動の経過報告をかねて座談会を開催した。久布白理事はここで、
廃娼聯盟を組織して公娼制度撤廃実施断行の第一線に乗り出して満八年、やっと所期の目的は達しましたが(中略)私共の理想である絶娼のためにはこれからこそ本当の運動を要するわけで、廃娼聯盟は『純潔国民同盟』と更正して奮闘致す考へ、皆様の過去の御後援を感謝すると共に一段のお力添えをお願ひ致します。

と挨拶した。当日は猛烈な吹雪にもかかわらず、婦人矯風会札幌支部会員をはじめ、前北大総長佐藤昌介廓清会北海道支部会長・札幌禁酒会会長高杉榮次郎北大教授、小野村林蔵牧師、西村久蔵札商教師ら六〇人以上が集まった(北タイ 昭10・1・25)。これらが札幌における熱心な廃娼運動の担い手たちであった。しかし、道内では他府県のように道会や市会レベルに廃娼案が上程・建議されるにはいたらなかった。
 そのような公娼廃止運動とは反対に、九年八月三日には三府一県の貸座敷営業者による全国大会(約一〇〇人出席)で、「公娼廃止に反対」が決議され、内務省へ陳情書を手交する動きもあった(北タイ 昭9・8・4)。それに呼応するかのように、北海道貸座敷同盟(会長札幌の斎藤甚太郎)は、十年二月十五日函館で集会を開き(五二人出席)、上京して反対運動を起こすことを決議した(北タイ 昭10・2・17)。このように道内ではまだ根強い存娼論も存在し、廃娼運動の妨げともなった。