その一方、内務省の社会事業調査会により、住宅組合法が大正十年に審議・答申されたあと、同年四月に公布、七月施行された。この住宅組合法には「組合員ニ住宅ヲ供給スルヲ目的トス」とあるごとく、組合は七人以上で構成され、住宅用地の造成、取得、賃借、譲渡、住宅の建設、購入を主な事業としていた。組合に対する優遇措置として、大蔵省預金部から府県を通じて低利の融資があり、三〇坪未満の住宅建設には登録税や地方税の免除措置も取られ、いわばヨーロッパでの市民的消費組合的自助組織であった(内務省住宅政策の教訓)。
札幌市及び隣接村を含んだ住宅組合の状況は、表8によってみることができる。これによると、大正末年から昭和十三年までに六二組合、借入資金総計は八五万三〇〇〇余円にのぼったことを示している。それとともに、住宅組合事務所所在地から住宅建設地域を類推するならば、山鼻、苗穂、円山、豊平、鉄北方面であることもうかがわれる。住宅組合法によれば、低利融資金を受けるには、自己資金を保有していることが条件となっていた。昭和四年の場合でさらに詳しくみてみよう。この年、組合員八五人の一一の住宅組合が認可された。札幌市昭和住宅組合では、八組合員で一万二〇〇〇円の自己資金を所有していたから、一組合員一五〇〇円の出資ということになる。これを出資金として九六〇〇円を借入しているから(一七年年賦償還)、一組合員一二〇〇円のローン返済額として、当時土地付住宅一戸が二七〇〇円くらいだったということになる。それにしても、当時一戸建住宅を所有するには最低一五〇〇円くらいの自己資金を準備しなければならないから、中産階層以上のものでなければ困難な状況だったといえるのではなかろうか。それでも、昭和十二年末までに五八〇人がこうした低利融資によって住宅を取得している(札幌市事務報告)。
表-8 住宅組合の状況 |
名称 | 事務所所在地 | 創立年月 | 借入資金 | 名称 | 事務所所在地 | 創立年月 | 借入資金 | |
協益 | 南20西8 | 大11. 3 | 20,000円 | 北水 | 北5西20 | 昭 3.3 | 12,000円 | |
『札幌市統計一班』(昭12)より作成。 |
札幌市の地価を大正十五年当時でみてみると、南一条西三丁目の坪七〇〇円を最高として、山鼻町で坪二~五〇円、豊平町で坪五~七〇円、白石町で坪一〇~二五円、桑園で坪五~八円、鉄北で坪三~七〇円、藻岩村大字円山村で坪一〇~二五円であった(札幌市及近郊土地価格記入図 道図)。
それでも、大正末から昭和初期にかけて、いわゆる郊外住宅の建設ラッシュを迎える。大正十一年秋から十二年春にかけて、市内鉄北、山鼻、白石方面に各五〇〇戸、その他五〇〇戸の計二〇〇〇戸の住宅が建てられたという(北タイ 大12・5・9)。郊外住宅は、市中央部と郊外とを結ぶ道路網、交通網の整備・伸張に伴って通勤・通学の利便性が生まれ、札幌市民に歓迎されたようである。
まず藻岩村大字円山村の場合、大正十三年札幌電気軌道(昭2札幌市営電車となる)が円山公園まで全通したことを受けて、十四年四月には円山地主会(大11創立)が名称も円山振興会と改め、住宅適地の宣伝に乗り出した。『大正十四年円山振興会寄附金芳名簿』(文資)によれば、宣伝の目的として、円山村の発達、道路の新設、各利益の促進、住宅適地を掲げ、各地主が所有反別に応じ、三円から二〇円の計一七五円の寄付金を募り、宣伝用のポスター代としているのがみられる。この時一〇〇〇枚印刷されたポスターには、「円山十勝」として、円山の環境、交通、地代の低廉、公課金の僅少、物価(蔬菜)の安価等の利点一〇項目がアピールされ、札幌市内はもちろん周辺の鉄道駅に掲示された(写真2、円山百年史)。ポスターの宣伝効果が効いたのか、大正十四年八二九戸、四一九三人であった円山村の人口は、昭和六年には二〇〇〇戸、一万三三六人と二・六倍に急増を遂げた(同前)。
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写真-2 札幌郊外円山住宅地宣伝ポスター |
このほか、宅地分譲として大正十五年には琴似駅付近(北タイ 大15・2・17)や南一一条西一六丁目付近(北タイ 大15・9・5)が、昭和三年には軽川駅前緑ヶ丘(写真3、北タイ 昭3・6・2)、札幌温泉付近(北タイ 昭3・7・14)が、五年には上山鼻桂丘(北タイ 昭5・10・12)が分譲地として坪一円より一三円までといった具合に新聞広告で宣伝され、郊外住宅が市民の羨望の的にもなっていった。それとともに住宅にも工夫が凝らされ、寒地向けで衛生的かつ経済的かつ便利といった「千円内外で中流の文化住宅」も紹介宣伝された(北タイ 昭2・10・14)。これは森本厚吉らの文化生活研究会とも関係する(後述)。図2は、昭和初期円山村に建てられたO家の文化住宅である。寒地用のペチカ、サンルームを備え、ガラスを多用したハイカラな住宅で、母屋の南端には廊下でつないだ隠居所があって老人夫婦が住み、「女中」部屋があるとおり、「女中」一人と家族八人といった構成で暮らしていた。
写真-3 軽川造林会社住宅地分譲の新聞広告(北タイ 昭3・6・2)
図-2 藻岩村大字円山村の文化住宅(昭和初期)
『北海タイムス』も、郊外住宅の増加に伴い、「郊外繁昌記」(昭2・8・12~10・12)や「鉄北繁昌記」(昭3・6・5~12)を連載し、遊園地、山鼻、円山、桑園、軽川、苗穂、白石、川向う、豊平、鉄北方面の住宅地への変貌を報じるのだった。
札幌市の住宅政策は、長年の懸案となっていた屋上制限規則を大正十一年十月公布、翌十二年四月施行して、屋根の不燃物材料の使用を義務付けた。しかも、政府の持家制度の推進とは裏腹に、借家住まいの人びとも多かった。大正十三年、借地借家法が札幌市にも施行され、なにかと紛争の絶えなかった地主対借地人、家主対借家人の調停役が生まれた。札幌の貸家は、借家人の逃亡を恐れてか、建物といっても畳もふすまもない、いわゆる「はだか貸し」と呼ばれるもので、借家人はそれらを自己負担する慣習となっていた。家賃は、大正十二年段階で停車場付近、狸小路で畳一枚分(半坪)一円二〇銭と最も高く、豊平街道及び周辺で同七五銭、山鼻町同六〇銭、その他同四〇銭が相場であった(北タイ 大12・5・9)。
大正十三年二月の通常市会で、市所有地の値上げが決議されたことにより、大通旧練兵場跡地や停車場通、中島方面市所有地の借地人との紛争は法廷にまで持ち込まれた。借地人は値上げ直後から反対運動を起こし、再三にわたり値上げ阻止を呼びかけたが、昭和五年三月二十九日、市の勝訴となった(北タイ 昭5・5・6)。
昭和四年三月二十九日より三日間にわたり札幌市において家屋調査を実施し、賃貸価格を調査した(北タイ 昭4・3・23、30、31)。昭和の不況期に入り、市内では二〇〇〇戸に近い空家が出る始末であった。この頃から、市内のあちこちにアパートが出現し始めた。九年十一月には約六〇軒の貸室業(自称アパート)があり、五〇〇人が居住していたと推定されている(北タイ 昭9・11・13)。二階建て十数室を持ったくらいで、一部屋六畳間で共同の洗面所・調理場付で月六円の家賃であった。住人はサラリーマン、バーの女給、学生といったさまざまな層からなる新しい居住空間が生み出され、新聞は珍奇なる人びとの横顔を興味ありげに報道している(北タイ 昭9・11・6~17)。なお、九年十一月十三日には、南六条西三丁目の木造三階建てアパートから出火、四八世帯中二八世帯が罹災したというようにすでに三階建てアパートも出現していた(北タイ 昭9・11・14)。この時はじめてアパートの建築規準が問題視された。