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衛生展覧会

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 「衛生展覧会」とは、衛生に関する知識を啓蒙するための展示を行う催しで、日本ではすでに明治二十三年(一八九〇)の第三回勧業博覧会で衛生関連の展示がなされたというくらい、長い歴史を持つ(衛生展覧会の欲望)。
 札幌では、明治四十五年六月の衛生展覧会(北海道衛生誌)を皮切りに、大正二年(一九一三)、七年(開道五十年記念北海道博覧会の拓殖教育衛生館)、十五年と続く。また、大正四年十月の『火防衛生』(火防衛生社刊)七二号によれば、すでに旭川、増毛、名寄、利尻、稚内、根室、小樽が開催済みで、函館、釧路が翌五年開催予定とあり、一種の「流行物」化していた観があったようである。しかも、主催の多くは道庁もしくは道庁指導下の衛生組合で、標本模型をたくさん展示し、説明員が逐一説明を加えるというものであり、標本模型は大日本私立衛生会などが全国に貸し出していた。
 また、大正十年の『火防衛生』一三七号によれば、その年東京両国国技館を会場に開催された大正衛生博覧会は、出品点数五万点と、六五万人の入場者を数え、同年七月には大日本私立衛生会函館支部主催で同展覧会の出品をそのまま函館に会場を移して、第二回大正衛生博覧会を開催したという。
 大正十五年八月、札幌市主催で衛生展覧会札幌市立高等女学校を会場に、同時開催の国産振興博覧会の入場者をあてこんで開かれた。ここでは、当時結核患者死亡率全国一といわれた札幌市の結核をテーマにとりあげ、標本模型などの展示品と説明を聞くだけで三時間もかかるという、主催者側の力の入れようがうかがわれる(北タイ 大15・8・9)。
 衛生展覧会は、これより先の十四年には札幌村第一尋常小学校でも開かれ、展示品とともに農村衛生についての講演や活動写真の上映も行われた(北タイ 大14・8・6)。
 昭和に入ってから開催されたおもな衛生展覧会は表37に示したとおりである。主催の多くは北海道庁、札幌市役所、それに札幌衛生組合聯合会によるものである。また、昭和五年(一九三〇)の衛生展覧会は、この年十月に開始された「健康週間」の一連の行事として行われたものであり、翌六年の衛生展覧会も、この年七月中島公園を会場に開催された国産振興北海道拓殖博覧会に合わせて開催されたものである。だが、十年開催の健康博覧会では、「富国強兵は輝く健康から」と、スローガンも時局ものに変わっていた(北タイ 昭10・5・4)。
表-37 札幌市で開かれたおもな衛生展覧会(昭和戦前)
名称主催会場内容
昭3保健衛生展札幌健康保険署札幌市立高女伝染病,性病,結核予防等
 5衛生展覧会北海道庁・札幌農業館・物産館性病検査,体力検査器,戦時参考品等
 6衛生展覧会札幌衛生組合聯合会市立高女大日本衛生普及所より百点余りの展示品
 10健康博覧会帝国保健協会農業館一般国民の保健衛生思想の向上普及のため
 12衛生展覧会衛生組合聯合会市立高女・拓殖館結核予防の普及宣伝等
 15衛生展覧会市・市衛生組合聯合会三越結核予防,レントゲン写真等
 16厚生文化展日本厚生文化研究所時計台今井記念館歯科・婦人・育児衛生,伝染病,寄生虫,栄養科学等
『北タイ』『樽新』より作成。

 これらの衛生展覧会の目的は、国民の衛生思想の向上普及にあり、従来から流行していた伝染病防止策をはじめ、結核患者死亡率全国一の汚名を返上すべく、結核予防と撲滅のため、最新医学の情報と技術をもって宣伝につとめているのが特色である。しかし、なかには衛生展覧会にはつきものの、見世物的な「エロ・グロ」衛生展覧会(北タイ 昭6・7・22)と呼ばれるような展示内容もなくはなかった。