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戦時下の短歌

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 昭和十年代は『新墾』が有力誌として十九年の休刊まで活動した。歌集としては長野英樹の『こぶしの花』(札幌冨貴堂、昭13・10)、藤本鳥羽子白樺』(東京・竹柏会、昭15・12)の二冊が出た。
 昭和十六年四月、北海道歌人協会の創立相談会が札幌の丸井デパート別室で開催され、秋葉安一、岡本高樹、小田観螢、勝見茂、酒勾親幸、代田茂樹、田辺杜詩花、戸塚新太郎、松田宗一郎、山下秀之助の一〇人が準備委員に指名された。同年六月、創立総会が豊平館で開催され、準備委員を中心に役員が決定し、全道の主だった歌人が評議員に選任された。
 『北方文芸』三号(昭16・12)に山下秀之助は「北海道歌壇の現状」を書いている。
最近の北海道歌壇に於て特筆すべきことは北海道歌人協会の結成であらう。今迄、道内の各歌人は、或いは個人を中心とし、或いは流派に拠つて、夫々の団体を作り各自短歌の進展に努力して居たのであるが、残念ながらそれらの団体間に何等の連繫が無く、従つて統合的な意味に於ける北海道歌壇といふものは存在して居なかつたと云つても過言ではない。しかしかかる孤立分散の状態は現在の我国の時局に鑑みて全く当を得ない有様であつて此処にこれら諸団体乃至個人が互に固い大きな団体を結成して地方文化翼賛の実を挙ぐべき機運に到達したのである。

 この文章の中の「時局」「文化翼賛」に注目すればわかるように、地方文化団体の統合は大政翼賛会およびその傘下の大日本歌人会からの要請によって作られたものであったことがわかる。このことは他の短詩型文学や創作についても言えることである。
 昭和十七年一月の愛国短歌講演会は札幌時計台で開催され、田辺杜詩花「万葉集の愛国歌について」、小田観螢「吉野朝期の愛国歌について」、山下秀之助「近代の愛国歌について」などの講演があった。十七年十月、豊平館を会場に第一回全道短歌大会が開催され、村田豊雄の「昭空燈の光芒うごく一ところしらじらと雪の秋を見せたり」が高点を得た。十八年三月には『献納詩歌集』が出た。
 太平洋戦争以後の統制で、北海道歌人協会北海道翼賛芸術聯盟の傘下に入り、北海道歌人協会編の『北海道歌集』が北方出版社から十八年八月に刊行された。序に「大東亜戦争第三年の春を迎え――かかる時局に際して、我が北海道歌人協会が、所属会員の決戦下に於ける作品を広く蒐めて、ここに北海道歌集第一輯を上梓する所以は、その意義敢へて少しとせぬものありと信ずる」とある。全会員一九四人から一五五人の出詠者があった。編集委員は代田茂樹、田辺杜詩花、本間龍二郎、村田豊雄らで、代表は山下秀之助であった。かくして北海道歌人協会は敗戦とともに役目を終え、戦後の北海道歌人会結成の架橋となった。