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漫画

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 大正末から昭和初期の札幌は、四六倍版の『北海道漫画』や『漫画時代』といった雑誌を発刊する、漫画文化の黄金時代だった。
 その中心人物が、大正十年から昭和七年まで北海タイムス社で漫画を描いた加藤悦郎であった。函館出身の加藤は、大正六年に小樽新聞社に入社し、岡本一平の影響を受け「文学と絵画の結合」を漫画と考え、漫画家の道を歩み出す。昭和二年には、藤井康吉らと『北海道漫画』を発刊し、またこの年、日本漫画家聯盟の松山文雄や須山計一と交流する。四年からは週一回『北海タイムス』紙上に漫画欄を開設する。また漫画欄の投稿家を集めて月曜会を組織する。『北海タイムス』の漫画欄は、佐藤八郎らプロレタリア美術家同盟の札幌支部のシンパとなった加藤の影響で左傾化し、六年には幹部の圧力で廃止となる。七年九月に上京し読売新聞の嘱託となるが、日中戦争下では建設漫画会・日本漫画奉公会のリーダーとして、国民の戦争協力を呼び掛けてゆくことになる(加藤悦郎漫画集、清水勲 漫画の歴史)。
 さて日本漫画家聯盟北海道支部の活動を中心に、札幌の漫画文化の盛況をみてみよう。
 大正十五年七月、日本漫画家聯盟北海道支部加藤悦郎方に創立されるが、下川矩、宍戸左行、柳瀬正夢、村山知義らの日本漫画家聯盟に呼応したものである。漫聯は「社会性なき漫画家は否定」すると宣言した(北タイ 大15・7・24)。
 大正十五年五月、日本漫画家聯盟北海道支部主催の即席漫画バザーでは、加藤悦郎唯是日出彦らが似顔絵を書くが、「学生、子供まで押すな/\の盛況」であった(北タイ 大15・6・1)。こうした似顔絵の即席揮毫会は、他にも丸井呉服店の新装を記念して、同年六月十二日から十四日まで、東京の服部亮英、小林克已、北海タイムス社澤枝重雄の三人で行われた。
 昭和二年六月五日に『北海道漫画』(全一〇頁)が、藤井康吉唯是日出彦近藤力雄稲葉七面子加藤悦郎により、一〇銭で創刊された(北タイ 昭2・6・2)。創刊号の表紙は、加藤悦郎作の「新北海道長官、澤田牛麿氏像」であった。加藤の後書きによると製版は中西製版所の腕によるという。またこの頃、もっと大衆的な漫画雑誌『北海パック』も発刊されていた。
 昭和二年八月十四日には、『無産者の夕』で劇「逃亡者」の上演が不許可となり、プロ芸術聯盟美術部員の林・益田両名が、日本漫画家聯盟北海道支部の援助を得て、白十字喫茶店(南3西4)で似顔絵の即売会を開く(北タイ 昭2・8・15、16)。
 『北海道漫画』の廃刊後、昭和四年五月に大通西五丁目の漫画時代社から、根本幸三編集、国分暢天、唯是日出彦、藤山天保、辻康吉らの執筆による『漫画時代』が創刊され、八号続いたと思われる(弘南堂古書目録 34)。この漫画時代社の番地は中西写真製版印刷の番地であり、創刊号に「漫画時代の絵画は凸版・銅版ともにすべて〈中西〉の責任製作品」とある。漫画時代社の同年七月の第一回漫画展に対して、同人ではない加藤悦郎は、「政治漫画のすべてが時局に対する観察及批判の正確さと鋭さとを失して居る」と酷評する。しかし写真13に掲げた、『漫画時代』創刊号の宍戸左行の「モボとモガの鋳造」などは、鋳型にはまったモボ・モガへの鋭い風刺が冴えている(北タイ 昭4・7・31)。

写真-13 『漫画時代』創刊号(昭4)

 また昭和七年三月には、久保田勇、小原栄治、森熊たけし、加藤悦郎らによって月曜クラブが誕生し、「年一回の定期的大展覧会、臨時小展覧会の開催、画集絵葉書その他の方法による郷土的漫画出版、研究会、座談会等」の活動方針を決めた(北タイ 昭7・3・16)。
 加藤悦郎が東京に去ったあとも、札幌の漫画家の活動は盛んであった。昭和八年六月には北海道漫画家集団第一回展覧会が三越で開かれるが、藤井康吉、井崎かずを等が会員で、九年一月に第二回漫画展を開催し、二月十三日に「漫画の夕」がもたれ、「漫画実演」「ナンセンス劇」「漫画ジェスチュア」「漫画家の踊り」などが催された(北タイ 昭8・6・2、昭9・2・10)。九年六月には、新進中堅の横山隆一・近藤日出造らの新漫画派集団が狸小路明菓で展覧会を行った(北タイ 昭9・6・14)。