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初の女性代議士に札幌から二人

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 昭和二十一年(一九四六)四月十日、初の女性参政権行使によって三九人の女性代議士(衆議院議員)が誕生したことは、戦後日本の民主化を示す最も印象的な事象であった。この時北海道一区から二人の女性が当選した。ともに札幌から、社会党公認の新妻イトと共産党公認の柄沢とし子である。

写真-8 新妻(左)・柄沢代議士の対談(道新 昭21.4.18)

 新妻は二十年三月東京で被災後、札幌に疎開して北海道日用品活用協会の嘱託となった。横浜に生まれアメリカのビジネスカレッジで学び、帰国後婦選運動に従事し『家庭新聞』を発行した。戦後は新日本学院理事として英語を教え、パンフ『婦人と参政権』を発行していた(わが道わがたたかい)。
 札幌生まれの柄沢は、庁立札幌高女卒業後タイピストとして働き、昭和八年の全協四・二五事件を初め数回の検挙を体験した。戦後直ちに入党し、主に炭鉱地帯で労働者の組織作りに活動していた。
 前年九月末の社説で婦人参政権時期尚早を主張した『北海道新聞』も、次第に高まる女性の選挙への関心を伝え、四月に入ると一区は三名、二区は二名の連記制などを解説して、必ず女性も投票するよう呼びかけた。そして十一日、前日の札幌市北九条国民学校での投票風景を、「目立つ婦人の姿 初の行使に明るい表情 何れも落着いた動作」と伝え、視察に来た進駐軍将兵の「婦人もよく出ますね」「ベビちゃんを背負って来てますね」という愉快そうな顔なども紹介した。
 十三日には「勤労婦人の衆望担ふ モンペ姿の女闘士 日本一の金的射止めた柄沢さん」と笑顔の写真を、十八日には二人の対談「民主戦線とこれからの婦人」を掲載した。天皇制に関する意見の違いなどあるが、「婦人が幸福になるやう頑張りませう」と新妻が結んでいる。
 最終得票数は新妻が六万九四一八票で三位(札幌市でも一万五六七〇票で三位)、柄沢が四万四一四〇票で十一位(札幌市では六五三五票で六位)となった。一四人の定員に対し、立候補者は女性二人を含む七一人だった。投票率は全国が七二・〇八パーセント、全道が六八・五パーセント、札幌市が七四・三七パーセントである(北海道選挙大観)。なお性別投票率は全道のみ判明し、男七五・五七パーセント、女六二・五八パーセントであった(北海道選挙管理委員会調べ)。
 国会における二人の活動は、まず第九〇回帝国議会衆議院本会議における柄沢の演説であった。六月二十九日、自由党稲田直道提案の「外地同胞引揚促進、外地引揚者復員者救済決議案」は満場一致で可決されたが、各派代表演説者七人の内五人が女性で、「婦人代議士初登壇」と各紙とも特筆した。しかし最後に登壇した柄沢は、猛烈な野次を浴びせられた。東京都の戦災者を拓北農民団として渡道させた北海道庁の施策を例に引いて、「帝国主義戦争の犠牲者になった引揚者救済予算の貧困」を批難したためである。
 また柄沢は生活保護委員会で委員外質問をして、法案改正の手続きや生存権の保障などを河合国務相に質した。九月に帰道した時、議員数が少なくて委員会に参加できない場合、「委員外質問の方法があることを委員長に教えられ、道出身の有馬英二議員の支持で」発言できたこと、議会への陳情団の応接にきわめて多忙なことなどを語っている(トラクター第七号 昭21・9・21)。
 一方新妻は、会計法戦時特例廃止に関する法律案委員会に、一八人中唯一の女性として参加した。息子の戦死体験もふまえて、論功行賞の公債・遺族扶助料・傷病賜金・戦争保険などの支給、国防献金や大日本婦人会の残金について質問した。予算委員会では幼稚園と保育所の一本化や、未復員者について質した。大日本婦人会の清算報告については、関係官庁が所管外として答弁しなかったので、八月十七日に質問主意書を提出して、内閣総理大臣吉田茂から九月三十日付答弁書を得た。柄沢という「好敵手あるひは協力者をもってゐることは、新妻さんの政治的実力涵養のよい砥石」という期待もあったが(婦人有権者 昭21・6・15)、初の国会で北海道選出の女性議員達は、よく活動したというべきであろう。新妻は「婦人代議士は何をしたか」のアンケートに、第九〇議会の予算委員会で保育の一本化や戦争犠牲者に対する方針を問い、第九一議会では皇室典範と皇室経済法の委員として質問したと答え、次の総選挙に立候補する決意を示した(婦人公論 昭22・4)。
 しかし翌二十二年の総選挙で北海道は五区に分けられ、新妻は定員五人の一区(札幌周辺)で一万一七三四票の九位、柄沢は定員三人の二区(函館周辺)で六五〇一票の八位に終わり落選した。投票率は全道で男六八・三パーセント、女五一・三パーセント、札幌市で男六五・二パーセント、女五〇・一パーセントであった(北海道の選挙)。
 新妻はこの後東京に戻って、労働省婦人少年局婦人課長に就任した。柄沢は二十四年一月に定員五人の四区(空知・胆振)から二万八二五九票の四位で議席を回復し、運輸委員会・逓信委員会を中心に活躍したが、二十七年十月と二十八年四月の選挙に落選した。