食生活は占領軍の影響も受けて急速に洋風化していった。二十六年に豆類・ソバなどの雑穀類の統制が撤廃され、砂糖は二十七年四月一日に撤廃、麦も同年六月に自由販売となった。主食の米は、配給米小売価格の値上げ幅に比べて、生産者米価の値上げ幅が低い理由から生産者によるヤミ米が増加していた(昭25~)ところ、二十七年十月の食管法改正令により、供出完了後の残り米を自由米にしてよいとされたことから(食と農の戦後史)、いわゆるヤミ米が市中に公然と出回り初めた。三十二年十一月になると配給米を辞退する家庭が市内に三割も出現したが、原因はヤミ米を購入する市民が増えたこととパン食の普及であった(道新 昭33・3・5)。三十二年十一月から公定価格の配給米が値上がりし、逆にヤミ米は豊作による値下がりで両者に価格差が無くなったことから、米穀通帳で割当量を買う配給制と市民の消費動向とに乖離が生じ始めていた。三十年以降の連続豊作により過剰米が発生するなかで、消費者の配給米離れ現象はこの後も加速した。
パン食の普及は、米不足が招いた粉食奨励の代用パンに始まるが、菓子製造業者がパン製造業に転換したり、パン製造業・会社ロバパンが占領軍の兵営内売店(P・X)の委託加工場となったり、二十一年に日本糧食化学工業会社(昭39日糧パン)の設立や、学校給食開始によるパン製造業者の育成(昭26年2月に18業者)など、占領終結の二十七年には市内のパン製造卸・小売業社が一〇社に増えていた(札幌商工名鑑 昭27)。
また、小・中学校の学校給食も、家庭と子どもの食生活の変容に大きな影響を与えた。学校給食は二十一、二十二年の副食のみの補食給食に始まり、二十四年十一月にパン給食がユニセフ脱脂粉乳を利用して初めて市内豊平小学校で実施された(学校給食現況 北海道札幌市立豊平小学校)。二十六年二月八日には市内二五(道立札幌盲学校含む)小学校で、パンを主食に脱脂粉乳のミルクと副食という完全給食スタイルができあがり、小麦粉はガリオア資金(占領地救済資金)による寄贈小麦粉が使用され、初日はパン・シチュー、リンゴの献立で実施された(道新 昭26・2・9夕)。しかしガリオア資金が講和条約調印を控えた二十六年一月にうち切られたため、二十九年五月、政府は学校給食を法制化するとともに米国の余剰小麦の輸入を決定した。子どもたちは一日一食コッペパン献立の食事をとることで大人以上にパン食に慣れ親しみ、和洋折衷型の食習慣が全国規模でつくられていった。さらに三十年になると「池田蔵相・ロバートソン会談」(昭28・10)の結果、米国の余剰小麦(MSA小麦)の大量輸入が決定し、小麦製品普及のために、二十九年開始の食生活改善運動と連携して、キッチンカーが全国を巡回した。米国農務省が資金援助したキッチンカー一二台は、日本食生活協会が主体となり三十一年秋から三十六年度まで全国の保健所をリレーし、栄養士による小麦粉を使用した無料料理講習を実演し試食させた(アメリカ小麦戦略)。札幌市内では三十二年九月十四日から一〇日間、中央・西保健所栄養士が琴似・藻岩・桑園・屯田の各小学校校庭や、厚別町山本・川下・白石町北郷・南米里など、主に農村地区一〇カ所を巡回し、小麦粉を使った献立による「栄養価の高い家庭料理」を実演講習した(道新 昭32・9・8)。米の消費量が減る一方でスパゲティ・マカロニ・うどん、ラーメンなどのめん類や、ビスケット・ドーナツ・ホットケーキなどの小麦製品が食事やおやつにも頻繁に利用されるようになった。
「高たんぱく、高カロリー」のアメリカ栄養学に基づいた各種料理講習も人気を集め、三十年代に入ると食糧事情も改善されて、牛乳やバターやチーズなど札幌の自社製品を使用した企業ピーアール料理講習会も盛んになった。また、NHKテレビ番組「きょうの料理」(昭32開始)など、マスメディアを通じて全国津々浦々まで同じ食材による献立・料理が伝播し、全国的に均一化した食文化を生む原因ともなっていった。日常の食生活から地域色が薄れる一方、行事食においては伝統料理が受け継がれており、正月の雑煮やおせち料理は各家の移住元の郷土料理がそれぞれ作られた。札幌の料理としては六月の札幌祭りの時の赤飯と山菜を使った煮しめと鮭の焼き魚料理などがあげられる。