[現代訳]

寛保二年洪水余録」(小諸市 小山隆司氏)
 
寛保2年7月1日は戌午の日、同月29日は丙戌日である。
晩七ツ時(午後4時頃)から雨が降りだし、六ツ時(6時頃)まで降っていったん止み、また六ツ半(7時)すぎから降りだし、一晩中止むことなく降り続いた。夜明け頃からなおまた非常に強く降りだした。八月朔日朝五ツ時(8時頃)、大音響がし、みな不思議に思いいろいろと推測し話をしたりしていたところ、音は段々近づいてきた。浅間山方面の法印坊沢というところから「蛇水」(土石流)が発生したらしく、みな驚き騒ぎはじめた。
蛇堀川、別名にごり沢で発生したこの)土石流の水煙は天に達するほど高く、段々屏風をたてたような形になり、沢や川の曲がり角では18メートル位の高さに達し、さらに大石小石がその上に雨が降るように6~9メートルほども舞い上がった。石が摺れて霹靂(雷)のような音が響き、水の中で火花を散らして流れ下ってきた。
蛇堀川土石流は)与良口木戸の庇より高く跳ね上がり、橋を破壊し、木戸の入り口の柵をなぎ倒し十王堂の広場の中に流れこみ、与良口番所のふみ石まで達した。土石流の音は大地震、あるいは雷の音のようだった。
この時松井川も氾濫し、蛇堀川と一緒に城下の田畑を流出させた。土石流は三度城下を襲った。
同じ頃、浅間山真楽寺の付近の寺沢という所から土石流が発生し、与良口のような水が押し出し、寺社ばかりを残してみな押し流してしまった。人馬や僧侶などが流され、行方不明となり流死した。土石流与良町の南のくりや川と乙女川ヘ流れ込み、田地を押し流し大きな被害を与えた。