文化文政期は江戸・大坂などの都市の繁栄、商人や文人の全国的な交流、出版教育の普及、寺社参詣の流行などにより都市の文化は各地に伝えられた。
商売などで遠方へ行くだけでなく、旅を楽しむことが流行した。
時代はややさかのぼるが、信州上田城下の『原町問屋日記』からは、伊勢神宮への参拝が、年々増えていることがわかる。18世紀中ごろから19世紀中ごろまで、領主への届け出をせずに旅立つ「抜参り」がふえ、若者が1ヶ月以上の日程で、伊勢・京・大阪を旅した事をうかがわせる記述も見られる。なかには女性の参宮記録も見られるが旅は男性が主であった。とはいえ時代を経るにつれ、女性もしだいに旅を楽しめるようになっていく。
山形の鶴岡から日光、江戸伊勢京都大坂をめぐり、鶴岡へ戻った三井清野はその一例である。彼女は豪商のお内儀さんであったから、2340キロ、180日の大旅行ができたのではあるが、信州の女性も江戸見物やお伊勢参りなどに行くようになる。ちなみに清野さんは文化14年(1817)3月23日に出立、7月1日には善光寺に詣でている。(『“きよのさん”と歩く江戸六百里』)
このような旅人や商人をターゲットとして出版されたのが『中山道道中商人鑑』などのシリーズである。
『善光寺之部』の「序」では、国々の諸問屋・名のある商工家・その地の名産・適正な値段の店・効きめのある売薬や妙薬・料理茶屋・水茶屋・名高い旅籠屋などを紹介し、遠国の商売などに便利であろうと記してある。
「旨趣」では商家や名物だけでなく、神社仏閣名所古跡や脇道まで載せてあると記している。さらには、続けて後編も著し、掲載の希望があれば増補追刻もすることは版元と撰者の願いである、としている。ここには文政十年(1827)亥春と年号が入っている。
「序辞」には文政八年乙酉冬とあり、中山道木曽路と東海道からはじめて、次第に東国・北国・神仏参詣の道まで刊行していく予定である、としている。
旅人が多くなり商品流通が活発となった江戸後期、冊子への掲載を希望する旅籠や店などから広告料を集め、出版するという方法が「序」などから読み取ることができる。
なお、同時代には『善光寺道名所図会』『木曽道名所図会』などの大きな挿絵の入った『名所図会』シリーズも発刊され、庶民の楽しみは増すことになる。
これら諸国道中鑑・名所図会ものや草双紙・洒落本・黄表紙・読本などの小説ものの出版元は、江戸・大坂・名古屋などの大都市に集中していた。しかし、この時代になると地方都市での出版も盛んになる。信州では「俳書」の出版が多くみられ、文政元年『はいかい神通力』、同4年『有り無し草』、同12年『一茶発句集』などがある。
『信州筑摩郡木曽上松駅寝覚浦島太郎略縁起』『信濃国布引山観音由来』『信濃国善光寺由来記』など、現在に伝わるお話のもととなっている「縁起物」もこの時代に、信州から出版されている。