3 松井田から追分まで

 ここに掲載した写真版『中山道道中商人鑑』のはじめのページは「中山道 松井田 酢屋徳左衛門」である。「板橋」から「上州妙義山」までと「松井田」のはじめの部分は載せてない。
・「酢屋」から二つめの「鳫金屋與市」には「松井田宿より二里上 横川御関所前立場」とある。旅人は碓氷峠を越える心準備をしたことであろう。「鳫金屋」の上部余白には「左に麻布の瀧見ゆ 碓氷御関所」と記され、関所の絵が小さく描かれている。
・「さ 中山道坂本宿 軽井沢え二里半十六丁 是より碓氷峠
 六軒の宿と八軒の店が掲載されている。
 碓氷峠には5軒の「御小休所」が載っており、餅・餅菓子砂・糖餅・御茶漬の広告を載せている。
 碓氷峠の嶺は「峠町」(しゃもじ町)と呼ばれていた。峠町はここを越える旅人の御休所であり熊野神社門前でもあったため、にぎわっていた。正徳3年(1713)には峠の嶺にもかかわらず、戸数60軒(信州分25軒・上州分35軒)もあり、町並は2町、人馬の立場茶屋が軒を並べていたという。熊野神社の境内に上州と信州の国境(くにざかい)があり、ここから信州軽井沢の地に入る。
・「か 軽井沢 沓掛え一里半」
 7軒の旅籠屋と「名物しなのそば」の店が掲載されている。
 軽井沢から沓掛、追分と続く宿(しゅく)を浅間三宿と呼び「小諸馬子唄」では「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾にお十六持ちながら」と唄われている。「お十六」とは三宿(さんしゅく)を三四九と数字化し、十六娘に擬したもの。この三宿には食売女(めしもりおんな)(飯盛女)が数いて、客引きをしていた。
 碓氷峠の登り口として栄えた軽井沢宿は明治維新期には衰微しはじめ、碓氷新道の開鑿、信越線の全通によりすっかりさびれた。ところが明治19年(1886)アレキサンダー・クロフト・ショーが訪れてから夏の避暑地として注目されるようになり、内外の宣教師の別荘が建つようになった。日本の政治家や実業家、文人も別荘を設けるようになり、次第ににぎわいを取り戻す。現在は国際的な避暑地として内外に知られるようになった。
・「く 中山道沓掛 追分え一里三丁」
 旅籠屋が5軒、店1軒が掲載されている。
 文久元年(1861)11月8日、和宮御降嫁の際の本陣御宿泊所となったことが大きなできごとであった。
 沓掛宿は3回の大火に遭っている。安永2年の大火では総戸数140戸のうち104戸が焼失、文化12年には本陣と大家5軒、昭和26年の大火ですべての建造物が失われた。現在は宿場の面影をうかがうことができない。
・「お 中山道追分 小諸へ三里半 小田井へ一里十丁」
旅籠屋四軒、店8軒が掲載されている。
 中山道と北国脇往還との分岐点(分去(わかされ))である追分にはふたつの行き先である小田井と小諸とが記されている。
 文化・文政のころの追分宿は、旅籠屋71軒、茶屋18軒、商家28軒(『商人鑑』に載る旅籠屋はわずか4軒、商家8軒)と大きな宿場町であった。人口は男子314人、女子558人と女性が圧倒的に多い。なぜだろう。女子のうち254人が食売女(飯盛女)であったのだ。この女性たちが客のもてなしにうたった唄が追分節(『信濃追分』)であるといわれている。「追分桝形の茶屋でホロと泣いたが忘らりょか」の歌詞は、宿場女と客のつながりと離別をあらわしている。彼女らが置かれたさみしく、きびしい境遇は「食売下女規定書之事」「奉公人請状之事」「質物指置女之事」などから知ることができる。
 
 これまで各宿の旅籠屋や店が「~軒載っている」との表現を繰り返してきた。しかし、実在した当時の旅籠屋や店は、『商人鑑』に掲載された数の十倍以上にもなる(前述した文化・文政頃の数を参照)。本当だろうか。確認するために時代がやや下った幕末の様子も見る。安政2年(1855)の追分宿旅籠屋仲間の取極めによると、大旅籠屋組合8軒、中は13軒、小は24軒、組合加入の旅籠屋だけでも45軒になる。組合未加入の旅籠屋を含めるとその数は、さらに多くなる。しかし『商人鑑』に載せられた旅籠屋はわずか4軒、十倍は越えるだろう。『商人鑑』に名を掲載した旅籠屋や店はやはり大変少なかったと言えよう。